145年1月 当時 68歳、代郡_韓輔に下大夫として仕える。 主君を慕ってであったと言われる。
145年3月 西平_趙穆下大夫指揮のもと河内_李国櫟陽城攻略戦に参加。
145年3月 城内への強行突入に成功、櫟陽城を陥落させる。
145年4月 代郡_韓輔公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
145年5月 代郡_韓輔公の指示によって、地元の支持を得るべく博郷の地への赴任が決まる。
145年8月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
145年11月 西平_趙穆下大夫指揮のもと河内_李国襄安城攻略戦に参加。
145年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 襄安城攻略は断念。 兵を退く。
146年1月 城キの戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
146年5月 穀昌の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 東陽_杜領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
146年6月 第2次博郷の戦いにおいて、酒泉_ケ陵軍と対戦。 右翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。
147年2月 東陽_杜国穀昌城攻略戦に着手。
147年8月 東陽_杜勝公率いる東陽_杜軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である城キ城に立て籠もる。
147年8月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 城キ城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
147年8月 城キ城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
148年1月 城キの地を拠点とする方面軍は新たに襄陽_王綏中大夫が司令官に。
148年1月 城キの南部方面軍を解任、首邑に戻る。
148年1月 巴西_相里国陰平城攻略戦に着手。
148年1月 城内への強行突入に成功、陰平城を陥落させる。
148年6月 東陽_杜国穀昌城攻略戦に着手。
148年6月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、穀昌城攻略は断念。 兵を退く。
148年10月 代郡_韓国宰相の任に抜擢される。
148年10月 裏でかなり強引な人事工作を行っていたのが功を奏する。
148年10月 河内_李国襄非城攻略戦に着手。
148年11月 陣中で無念の病死。 享年 72歳。
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