145年1月 当時 24歳、河内_李純に邑宰として仕える。 出世に無欲であったと言われる。
147年1月 汾陰で反旗を掲げ、叛乱軍の指導者となる。
147年1月 江夏_頓軍の後ろ盾を得る。
148年5月 地方叛乱軍指導者であった汝陰_劉浩が同志となり戦力が増す。
148年8月 民を思う安平_張興の志しに触れ、手を結ぶ決断をする。
149年10月 国内の安平_張班に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
151年7月 息子の燕郡_奔水孚が元服し安平_張軍中大夫を拝命。
152年12月 鬱林_雍門国寧昌城攻略戦に着手。
152年12月 城内への強行突入に成功、寧昌城を陥落させる。
153年4月 昌陽森の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 鬱林_雍門領昌陽を制圧。
153年4月 呉郡_將梁展卿指揮のもと鬱林_雍門国昌陽城攻略戦に参加。
153年4月 城内への強行突入に成功、昌陽城を陥落させる。
153年9月 中廬東の戦いにおいて、安平_張軍援軍として河平_王軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 河平_王領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
153年10月 安平_張興公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
153年11月 安平_張興公の指示によって、地元の支持を得るべく楡次の地への赴任が決まる。
153年12月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
154年3月 西華の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 左翼を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊したものの、味方の助けもあり勝利。 侵攻作戦は成功。 鬱林_雍門領西華を制圧。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 33歳。
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