148年1月 南陽_呂支の嫡子として元服し南陽_呂軍中大夫を拝命。
148年4月 合流先を失い、以後、南陽_呂支公に従う。
148年10月 南陽_呂支公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
150年1月 東陽_杜鮑卿指揮の東陽_杜軍に高陽城を包囲される。
150年1月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 高陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
150年7月 宣城_扶袤下大夫指揮の東陽_杜軍に高陽城を包囲される。
150年7月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 高陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
151年1月 汲郡_不弟宇宰相指揮の東陽_杜軍に高陽城を包囲される。
151年1月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 高陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
151年7月 東陽_杜鮑卿指揮の東陽_杜軍に高陽城を包囲される。
153年8月 安平_張興の支配する青蛉の地を訪れる。 子供たちの童謡などから安平_張軍の人物関係をそれとなく理解する。
154年5月 長沙_紀泰の支配する郁平の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから安平_張軍の人物関係をそれとなく理解する。
154年6月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、安平_張軍に仕官する。 彼が 21歳の時であった。
154年7月 安平_張興公の指示によって、地元の支持を得るべく寧昌の地への赴任が決まる。
154年7月 国内の彭城_施宣と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
154年8月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
154年9月 君主安平_張興死亡。 悩んだ末、彭城_施宣士の推薦で、中山_學舎に従うことを決める。
154年9月 中山_學舎公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
154年11月 中山_學舎公の指示によって、地元の支持を得るべく祁郷の地への赴任が決まる。
155年2月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
155年6月 この月の人事で、中山_學国、文官として処務にあたる任を司る。
155年7月 中山_學舎公の指示によって、地元の支持を得るべく平臺の地への赴任が決まる。
155年7月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
155年11月 營道の地を拠点とする、燕郡_奔水孚中大夫揮下の南東部方面軍に配属。
155年11月 第3次楡次の戦いにおいて、瑯邪_義軍と対戦。 左翼を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。 瑯邪_義領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
155年12月 營道の地の方面軍を解任、首都に戻る。
156年2月 第4次楡次の戦いにおいて、瑯邪_義軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 瑯邪_義領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
156年2月 呉郡_將梁展宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
156年3月 呉郡_將梁展宰相の指示によって、地元の支持を得るべく平阿の地への赴任が決まる。
156年4月 その分析力を生かし、零陵_馬啓邑宰の叛乱を予測、 決断を迫られる。
156年4月 この地の零陵_馬啓の叛乱決起にやむなく同意し、 その配下となる。
156年7月 呉郡_將梁展宰相指揮の中山_學軍に平阿城を包囲される。
156年7月 中山_學軍の猛攻を防ぎきれず、平阿城は落城する。
156年7月 中山_學国に拠点平阿を制圧され降伏。 捕虜となるも丁重に扱われ、中山_學軍士を拝命。
156年8月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
156年10月 達昌の地を拠点とする、弘農_周生淵上大夫揮下の南西部方面軍に配属。
157年1月 端氏の戦いにおいて、瑯邪_義軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。 瑯邪_義領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり処刑。 享年 25歳。
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