145年1月 当時 39歳、河内_李純に中大夫として仕える。 家督をついで優遇であったと言われる。
145年3月 代郡_韓国嘉平城攻略戦に着手。
145年8月 代郡_韓輔公率いる代郡_韓軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である吾豐城に立て籠もる。
145年8月 度重なる代郡_韓軍の猛攻から 吾豐城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
145年11月 西平_趙穆下大夫率いる代郡_韓軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である襄安城に立て籠もる。
145年11月 度重なる代郡_韓軍の猛攻から 襄安城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
146年1月 代郡_韓輔公率いる代郡_韓軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である陰平城に立て籠もる。
146年1月 度重なる代郡_韓軍の猛攻から 陰平城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
146年1月 陰平城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
146年4月 宕渠_宋禧士率いる代郡_韓軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である吾豐城に立て籠もる。
146年5月 吾豐の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
146年11月 東陽_杜勝公率いる東陽_杜軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である高陽城に立て籠もる。
146年11月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 高陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
146年11月 高陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
146年12月 息子の南陽_呂翰が元服し巴西_相里軍下大夫を拝命。
147年5月 東陽_杜鮑卿率いる東陽_杜軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である高陽城に立て籠もる。
147年5月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 高陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
147年5月 高陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
147年12月 吾豐の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく東陽_杜軍と対戦。 左翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
147年12月 公巴西_相里武に今後の忠誠を誓う。
148年1月 汲郡_不弟宇宰相指揮の東陽_杜軍に高陽城を包囲される。
148年1月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 高陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
148年1月 敵侵攻によって孤立した高陽の地で暫定自治を始める。
148年1月 息子の南陽_呂偉が元服し南陽_呂軍中大夫を拝命。
148年4月 合流先を失い、独立を決意。
149年7月 高陽の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 陣頭に立つ、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
149年10月 第2次高陽の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
150年1月 東陽_杜鮑卿指揮の東陽_杜軍に高陽城を包囲される。
150年1月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 高陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
150年7月 宣城_扶袤下大夫指揮の東陽_杜軍に高陽城を包囲される。
150年7月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 高陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
151年1月 汲郡_不弟宇宰相指揮の東陽_杜軍に高陽城を包囲される。
151年1月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 高陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
151年7月 第3次高陽の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。
151年7月 東陽_杜鮑卿指揮の東陽_杜軍に高陽城を包囲される。
151年11月 第4次高陽の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく東陽_杜軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 捕虜になるを良しとせず自害。 享年 45歳。
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