経歴
|
157年1月 当時 29歳、京茲_婁光に邑宰として仕える。 適材適所の配属であったと言われる。
161年7月 申の地に赴任。
162年1月 敵侵攻によって孤立した申の地において、 暫定自治を始めた灑藍_婁不疑上大夫に従うことになる。
164年11月 君主死亡。 特に従う人物も無く、放浪を始める。
167年5月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、居巣_軍に仕官する。 彼が 39歳の時であった。
167年7月 曹の地を拠点とする、黄_王子鑒上大夫揮下の北西部方面軍に配属。
167年10月 広武_騎兌公指揮の広武_騎軍に曹城を包囲される。
167年10月 広武_騎軍は自軍の側背を考慮し撤退、曹城は安泰を得る。
167年12月 曹の北西部方面軍を解任、首邑に戻る。
167年12月 国内の厥貉_王官忌に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
168年4月 杞川の戦いにおいて、京茲_婁軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
168年10月 曹北の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 右翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
169年6月 甲氏_公孫泰卿指揮の広武_騎軍に曹城を包囲される。
169年6月 広武_騎軍は自軍の側背を考慮し撤退、曹城は安泰を得る。
169年11月 敵侵攻によって孤立した曹の地において、 暫定自治を始めた黄_王子鑒卿に従うことになる。
169年12月 同じ暫定自治を行っていた、秦周_燕濤公に合流する。
170年10月 濮陽平原の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、敗戦。
170年10月 敵侵攻によって孤立した曹の地において、 暫定自治を始めた黄_王子鑒卿に従うことになる。
171年2月 曹北の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。
171年2月 広武_騎性中大夫指揮の広武_騎軍に曹城を包囲される。
171年5月 広武_騎軍は自軍の側背を考慮し撤退、曹城は安泰を得る。
171年6月 曹北の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 左翼騎を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
171年12月 曹北の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 右翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
172年5月 曹北の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 最後尾で殿を努める。
172年5月 甲氏_公孫泰卿指揮の広武_騎軍に曹城を包囲される。
172年5月 広武_騎軍は自軍の側背を考慮し撤退、曹城は安泰を得る。
173年1月 曹平原の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
173年7月 穀北の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 穀地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
174年1月 槐里_狐容卿指揮の広武_騎軍に曹城を包囲される。
174年1月 広武_騎軍の猛攻を防ぎきれず、曹城は落城する。
174年1月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
177年7月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、大梁_荊軍に仕官する。 彼が 49歳の時であった。
178年3月 息子の棘_朱楊が元服し大梁_荊軍士を拝命。
182年5月 雲中東の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 右翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
182年9月 恐怖で夢から覚めるが、内容は思い出せなかった。
186年11月 雲中東の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 左翼騎を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
186年11月 期思_南宮苗卿指揮の広武_騎軍に雲中城を包囲される。
186年11月 広武_騎軍の猛攻を防ぎきれず、雲中城は落城する。
186年11月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
187年11月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、広武_騎軍に仕官する。 彼が 59歳の時であった。
187年11月 夷陵の地を拠点とする、広武_騎嬰卿揮下の南部方面軍に配属。
188年3月 高密西の戦いにおいて、広武_騎軍援軍として滑_懿軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。 滑_懿領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
188年11月 夷陵の地の方面軍を解任、首都に戻る。
188年12月 高唐の地を拠点とする、厥貉_王官乗上大夫揮下の北東部方面軍に配属。
188年12月 番陽北の攻防戦において、広武_騎軍援軍として督陽_子師軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 督陽_子師領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
188年12月 高唐城において病に伏せ逝去。 享年 61歳。
|
|