経歴
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398年10月 高密の地にいた際、敖倉_爲軍所属の歴陽_臧通士から仕官の誘いがあり王と会う約束をする。
398年10月 巫_廖忠を王に引き合わせ、双方が認め合った後、 敖倉_爲軍邑宰としての仕官が決まる。
398年10月 敖倉_爲浩と面会、気持ちの整理が付き敖倉_爲軍士としての仕官が決まる。
398年11月 この月の人事で、敖倉_爲国、文官として処務にあたる任を司る。
398年12月 国内の南里_叔須と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
399年6月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の支持を得るべく霍の地への赴任が決まる。
399年10月 住民支持向上のたいした成果も上がらず、霍の地をあとにする。
400年8月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の支持を得るべく広漢の地への赴任が決まる。
400年11月 贔屓がひどく、風評が芳しくないまま、広漢の地をあとにする。 このことに関し、費滑_季據邑宰や関係者を買収。 敖倉_爲浩王の耳にまで届かなかったという。
401年9月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の支持を得るべく雍の地への赴任が決まる。
401年12月 成果を上げるどころか、大失政をし、北地の地をあとにする。 そのことを知った、敖倉_爲浩王が激怒。 10ヶ月の謹慎処分を受ける。
402年10月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の支持を得るべく建為の地への赴任が決まる。
403年2月 赴任中は出仕することがほとんど無いまま、たいした成果も上がらず、 建為の地をあとにする。
403年12月 地元の経済の向上を目指し翼の地への赴任が決まる
404年3月 成果を上げるどころか、失政をし、翼の地をあとにする。 そのことを知った、蕭_賈巫宰相が激怒。 9ヶ月の謹慎処分を受ける。
405年12月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく寿春の地への赴任が決まる。
406年5月 贔屓がひどく、風評が芳しくないまま、寿春の地をあとにする。
407年3月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく舒の地への赴任が決まる。
407年7月 住民支持向上のたいした成果も上がらず、舒の地をあとにする。
408年6月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく魏の地への赴任が決まる。
408年10月 贔屓がひどく、風評が芳しくないまま、魏の地をあとにする。
409年12月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく呉の地への赴任が決まる。
410年4月 まるで覇気が無く嘲笑の的となるなど、たいした成果も上がらず、 呉の地をあとにする。
412年1月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく陽楽の地への赴任が決まる。
412年5月 成果を上げるどころか、失政をし、陽楽の地をあとにする。 そのことを知った、蕭_賈巫宰相が激怒。 10ヶ月の謹慎処分を受ける。
417年9月 国内の晋_中行醜に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
420年12月 君主敖倉_爲囂逝去。 継承者として9代王敖倉_爲黙に従うことを決める。
421年5月 息子の巫_廖賀が元服し敖倉_爲軍士を拝命。
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