100年1月 当時 59歳、廬江_甫爽矩に士として仕える。 能力アピールでの昇進であったと言われる。
100年2月 新野_堪囘卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年3月 新野_堪囘卿の指示によって、地元の支持を得るべく咸陽の地への赴任が決まる。
100年7月 住民支持向上の成果をかろうじて上げ、咸陽の地をあとにする。
100年12月 新野_堪囘卿の指示によって、地元の経済の向上を目指し隴西の地への赴任が決まる。
101年8月 成果を上げるどころか、失政をし、隴西の地をあとにする。 そのことを知った、新野_堪囘卿が激怒。 6ヶ月の謹慎処分を受ける。
101年10月 新野_堪囘卿の指示によって、地元の経済の向上を目指し隴西の地への赴任が決まる。
102年2月 河上_廖艷公率いる河上_廖軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である剣閣城に立て籠もる。
102年2月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 剣閣城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年2月 剣閣城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
102年8月 広漢の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 河上_廖領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり河上_廖軍士として登用される。
103年1月 遼東_楊翼中大夫指揮のもと漢中_輔国宛城攻略戦に参加。
103年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、宛城攻略は断念。 兵を退く。
103年7月 遼東_楊翼中大夫指揮のもと漢中_輔国宛城攻略戦に参加。
103年7月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、宛城攻略は断念。
103年10月 廣平_j裕士指揮のもと河上_廖軍国番陽城攻略戦に参加。
103年12月 予章の地を拠点とする、中山_學舎中大夫揮下の南東部方面軍に配属。
104年4月 上谷_滕晞下大夫指揮のもと陳留_盂国六城攻略戦に参加。
104年4月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、六城攻略は断念。 兵を退く。
105年9月 藍田西の攻防戦において、河上_廖軍援軍として東郡_尹軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。
105年11月 建寧_委賓上士指揮のもと陳留_盂国潁陽城攻略戦に参加。
106年3月 潁陽西の攻防戦において、陳留_盂軍と対戦。 左翼を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 陳留_盂領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり処刑。 享年 65歳。
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