100年1月 当時 40歳、汝南_郭静に邑宰として仕える。 出世に無欲であったと言われる。
100年2月 公の命を受け、この地を訪れた金城_浩卿から公への忠誠の意を確認され、 賛同する。
100年11月 能力が認められ邑宰に推薦を受けるが、野心無く断る。
101年11月 君主汝南_郭静死亡。 悩んだ末、陽平_杜嵩邑宰の推薦で、金城_浩に従うことを決める。
102年11月 新興_西王j卿指揮の新城_公子軍に濮陽城を包囲される。
102年11月 度重なる新城_公子軍の猛攻から 濮陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
103年5月 淮陽_陰參上大夫指揮の新城_公子軍に濮陽城を包囲される。
103年8月 度重なる新城_公子軍の猛攻から 濮陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
104年1月 君主死亡。 特に従う人物も無く、放浪を始める。
107年7月 南郡_將軍翹の支配する督亢の地を訪れる。 住民との会話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年8月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、河上_廖軍に仕官する。 彼が 48歳の時であった。
107年9月 予章の地を拠点とする、遼東_楊翼卿揮下の南東部方面軍に配属。
107年12月 第3次平陽の戦いにおいて、河上_廖軍援軍として南郡_將軍軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
108年2月 配属されていた予章の地の方面軍解散が決定。 首邑に戻る。
108年2月 朝歌の地を拠点とする、豫章_陳桑上士揮下の北東部方面軍に配属。
108年2月 淮陽_陰參卿指揮のもと武キ_懸潘国臨晋城攻略戦に参加。
108年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、臨晋城攻略は断念。
108年11月 上谷_滕晞卿指揮のもと代郡_慶忌国黄城攻略戦に参加。
108年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 黄城攻略は断念。 兵を退く。
109年3月 国内の上郡_王卓と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
109年5月 賛同する上郡_王卓士のはからいにより、 琅邪の地を拠点とする新野_堪囘卿揮下、 北東部方面軍に配属が決まる。
109年5月 中山_學舎卿指揮のもと臨海_馬国鉅鹿城攻略戦に参加。
109年5月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、鉅鹿城攻略は断念。 兵を退く。
109年8月 賛同する上郡_王卓士のはからいにより、 琅邪の地を拠点とする新野_堪囘卿揮下、 北東部方面軍に配属が決まる。
110年1月 中山_學舎卿指揮のもと代郡_慶忌国黄城攻略戦に参加。
110年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、黄城攻略は断念。 兵を退く。
110年5月 雲中の地を拠点とする方面軍に配属が決まる。
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