100年4月 動乱の時代に自分の力を試したく、義勇兵を募り挙兵。 巴郡_忌攸の目に掛かり仕官。
100年5月 南郡_鮭韜卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
101年2月 国内の巴郡_忌眞に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
104年10月 武キ_懸潘胤の支配する函谷関の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから象郡_賀軍の人物関係をそれとなく理解する。
104年11月 象郡_賀沛の支配する薊の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
104年12月 陳留_盂祕の支配する歴陽の地を訪れる。 子供たちの童謡などから陳留_盂軍の人物関係をそれとなく理解する。
105年1月 河上_廖艷の支配する剣閣の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから漢中_輔軍の人物関係をそれとなく理解する。
105年2月 東郡_尹粛の支配する藍田の地を訪れる。 この地の知者との話などから陳留_盂軍の人物関係をそれとなく理解する。
105年3月 漢中_輔基の支配する陝城の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから武キ_懸潘軍の人物関係をそれとなく理解する。
105年4月 陳留_盂祕の支配する大梁の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
105年5月 南郡_將軍翹の支配する蒲陽の地を訪れる。 住民との会話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
105年6月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、河上_廖軍に仕官する。 彼が 20歳の時であった。
105年7月 河上_廖艷公の指示によって、地元の支持を得るべく夷陵の地への赴任が決まる。
105年8月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
105年10月 櫟城の戦いにおいて、武キ_懸潘軍と対戦。 指示により伏兵部隊を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
105年10月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
105年11月 予章の南東部方面軍補佐の任を解任、首邑に戻る。
105年12月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく櫟城の地への赴任が決まる。
106年3月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
106年5月 城陽の地を拠点とする、風洪上大夫揮下の東部方面軍に配属。
106年6月 洛陽の戦いにおいて、汝南_張軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。 汝南_張領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
106年9月 遼東_楊翼卿指揮のもと汝南_張国陽擢城攻略戦に参加。
107年1月 陽擢の戦いにおいて、汝南_張軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 汝南_張領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
107年1月 国内の帶方_衆他と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
107年3月 第2次陝城の戦いにおいて、武キ_懸潘軍と対戦。 左翼騎を担い、勝利。
107年9月 中山_學舎卿指揮のもと南郡_將軍国曲沃城攻略戦に参加。
107年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、曲沃城攻略は断念。 兵を退く。
108年1月 第4次邯鄲の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 右翼を担い、偽の退却で敵を包囲、勝利。 侵攻作戦は成功。 南郡_將軍領邯鄲を制圧。
108年1月 隴西_季老混宰相指揮のもと南郡_將軍国邯鄲城攻略戦に参加。
108年1月 邯鄲城を包囲戦の末、陥落させる。
109年1月 河上_廖延卿指揮のもと廣陵_張国蒲陽城攻略戦に参加。
109年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、蒲陽城攻略は断念。 兵を退く。
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