101年10月 昌黎_董禮の嫡子として元服し南郡_將軍軍士を拝命。
101年11月 南郡_將軍翹公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
101年12月 南郡_將軍翹公の指示によって、地元の経済の向上を目指し東垣の地への赴任が決まる。
102年8月 東垣の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
102年9月 汝南_鄭統中大夫率いる象郡_賀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である襄国城に立て籠もる。
102年12月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 襄国城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年12月 襄国城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
103年4月 第2次東垣の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 象郡_賀領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり象郡_賀軍士として登用される。
103年4月 象郡_賀沛公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
103年5月 象郡_賀沛公の指示によって、地元の支持を得るべく陽楽の地への赴任が決まる。
103年6月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
103年7月 沮陽の地を拠点とする、漢中_棘牧下大夫揮下の北西部方面軍に配属。
103年7月 東平_張統中大夫率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である沮陽城に立て籠もる。
103年7月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 沮陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
103年7月 沮陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
103年8月 沮陽の北西部方面軍を解任、首邑に戻る。
103年8月 東垣の地を拠点とする、汝南_鄭援卿揮下の南西部方面軍に配属。
104年4月 邯鄲の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 呉郡_董領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
104年9月 彭城_左史玄卿指揮のもと南郡_將軍国代城攻略戦に参加。
104年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、代城攻略は断念。 兵を退く。
105年3月 汝南_鄭援卿指揮のもと南郡_將軍国代城攻略戦に参加。
105年3月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、代城攻略は断念。 兵を退く。
105年7月 第2次楼煩の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 右翼騎を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
105年7月 君主象郡_賀特死亡。 特に協力者もいなかったため、悩んだ末、代郡_慶忌彝に従うことを決める。
105年7月 漢中_棘穰卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
105年8月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
108年5月 淮陽_陰參卿指揮の河上_廖軍に黄城を包囲される。
108年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 黄城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年11月 上谷_滕晞卿指揮の河上_廖軍に黄城を包囲される。
108年11月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 黄城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年2月 新野_堪囘卿指揮の河上_廖軍に黄城を包囲される。
109年6月 東來東の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
110年1月 中山_學舎卿指揮の河上_廖軍に黄城を包囲される。
110年1月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 黄城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
110年7月 隴西_季老混宰相指揮の河上_廖軍に黄城を包囲される。
110年11月 東來平原の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
110年11月 漢中_棘穰卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
110年12月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
111年1月 漢中_棘穰卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
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