100年12月 漢中_棘穰の養子に迎えられ漢中_棘軍下大夫を拝命。
101年1月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
101年1月 薊西の攻防戦において、南郡_將軍軍と対戦。 父に随軍する形で左翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
101年4月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
102年1月 南郡_將軍翹公率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である沮陽城に立て籠もる。
102年1月 息子の漢中_棘秀が元服し漢中_輔軍士を拝命。
102年2月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 沮陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年3月 陳郡_陰覧上士率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である鉅鹿城に立て籠もる。
102年3月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年3月 鉅鹿城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
102年3月 敵侵攻によって孤立した督亢の地において、 暫定自治を始めた漢中_棘穰上大夫に従うことになる。
102年4月 同じ暫定自治を行っていた、象郡_賀沛公に合流する。
102年6月 鉅鹿の南部方面軍を解任、首邑に戻る。
102年7月 沮陽の地を拠点とする、彭城_左史玄中大夫揮下の北西部方面軍に配属。
102年8月 東垣の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 左翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 侵攻作戦は成功。 南郡_將軍領東垣を制圧。 功績により上士に昇進。
102年9月 汝南_鄭統中大夫指揮のもと南郡_將軍国襄国城攻略戦に参加。
102年12月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 襄国城攻略は断念。 兵を退く。
103年7月 南郡_將軍翹公率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である東垣城に立て籠もる。
103年7月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 東垣城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
103年7月 東垣城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
103年10月 彭城_左史玄卿指揮のもと新城_公子国臨鯔城攻略戦に参加。
103年10月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 臨鯔城攻略は断念。 兵を退く。
104年4月 邯鄲の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 父に随軍する形で右翼を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 呉郡_董領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
104年7月 国内の彭城_左史玄に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
105年5月 第2次邯鄲の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 陣頭に立つ、いくつかの敵部隊を粉砕し奮戦するが、敗戦。 呉郡_董領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 功績により中大夫に昇進。
105年7月 君主象郡_賀特死亡。 以後国内の協力者であった彭城_左史玄の旗揚げに従う。
105年7月 彭城_左史玄公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
105年8月 彭城_左史玄公の指示によって、国の柱となる人材を収集するべく督亢の地への赴任が決まる。
105年8月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
107年1月 現在は次期後継者として有望な長男彭城_左史褒を擁立する時期と見る。
108年5月 上谷_滕晞卿指揮の河上_廖軍に南皮城を包囲される。
108年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 南皮城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年4月 廣平_梁全上大夫指揮の河上_廖軍に南皮城を包囲される。
109年4月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 南皮城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年4月 彭城_左史褒公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
109年4月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
109年5月 彭城_左史褒公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
109年5月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
110年1月 上谷_滕晞卿指揮の河上_廖軍に南皮城を包囲される。
110年1月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 南皮城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
110年7月 中山_學舎卿指揮の河上_廖軍に南皮城を包囲される。
110年7月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 南皮城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
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