100年1月 当時 39歳、漢中_輔基に邑宰として仕える。 主君から妬まれた将であったと言われる。
101年11月 能力が認められ邑宰に推薦を受けるが、野心無く断る。
105年9月 君主死亡。 特に従う人物も無く、放浪を始める。
107年9月 河上_廖艷の支配する州の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから汝南_鄭軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年10月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、河上_廖軍に仕官する。 彼が 46歳の時であった。
107年10月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
107年11月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく随の地への赴任が決まる。
108年6月 住民支持向上の一定の成果は上げ随の地をあとにする。
108年8月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく呉の地への赴任が決まる。
109年2月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
109年3月 雲中の地を拠点とする、南郡_將軍翹上大夫揮下の北部方面軍に配属。
109年6月 国内の隴西_季老混に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
109年7月 蒲陽平原の攻防戦において、廣陵_張軍と対戦。 前衛を担い奮戦するが、敗戦。 廣陵_張領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
111年2月 賛同する隴西_季老混宰相のはからいにより、 雲中の地の方面軍を解任、首都に戻る。
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