100年1月 当時 31歳、呉郡_董竒に上士として仕える。 卿の人事であったと言われる。
100年2月 桂陽_柏成繍卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年4月 南康_盧深下大夫指揮の漢中_輔軍に上党城を包囲される。
100年4月 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 上党城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
100年12月 汝南_鄭統中大夫指揮の漢中_輔軍に上党城を包囲される。
100年12月 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 上党城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年7月 息子の新平_羅敖が元服し呉郡_董軍士を拝命。
103年10月 国内の河内_王發に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
106年6月 東平_張統上大夫指揮の南郡_將軍軍に上党城を包囲される。
106年6月 南郡_將軍軍の猛攻を防ぎきれず、上党城は落城する。
106年6月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
107年9月 河上_廖艷の支配する洛陽の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年10月 河上_廖艷の支配する黔中の地を訪れる。 この地の知者との話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年11月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、河上_廖軍に仕官する。 彼が 38歳の時であった。
108年10月 配属先が決まり、武官として準備するよう通達される。
108年10月 城陽の地を拠点とする、風洪卿揮下の東部方面軍に配属。
109年1月 河上_廖延卿指揮のもと廣陵_張国蒲陽城攻略戦に参加。
109年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、蒲陽城攻略は断念。 兵を退く。
109年7月 蒲陽平原の攻防戦において、廣陵_張軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 廣陵_張領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
110年4月 廣平_梁伶卿指揮のもと廣陵_張国蒲陽城攻略戦に参加。
110年8月 第2次蒲陽の戦いにおいて、廣陵_張軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 廣陵_張領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
|