100年1月 当時 23歳、清河_張支に邑宰として仕える。 主君の友人であったと言われる。
103年4月 風洪上士指揮の河上_廖軍に州城を包囲される。
103年5月 君主死亡によって野に下る。 そのころ、大規模に将兵の徴募を募っていた呉郡_董輔に仕官する。 士を拝命。
103年10月 桂陽_柏成繍卿指揮のもと新城_公子国邯鄲城攻略戦に参加。
103年10月 城内への強行突入に成功、邯鄲城を陥落させる。
104年4月 第3次聊城の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 左翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 新城_公子領聊城を制圧。
104年4月 邯鄲の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 左翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
104年10月 国内の樂浪_李粋に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
105年5月 第2次邯鄲の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により上士に昇進。
105年6月 第4次聊城の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 聊城地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
106年2月 国内の汝南_養由斌に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
106年3月 国内の遼西_屠岸扶に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
106年6月 東平_張統上大夫指揮の南郡_將軍軍に上党城を包囲される。
106年6月 南郡_將軍軍の猛攻を防ぎきれず、上党城は落城する。
106年6月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
108年1月 河上_廖艷の支配する剣閣の地を訪れる。 この地の知者との話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年2月 陳留_盂祕の支配する東海の地を訪れる。 酒場でのやりとりなどから陳留_盂軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年3月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、河上_廖軍に仕官する。 彼が 31歳の時であった。
108年3月 朝歌の地を拠点とする、豫章_陳桑上士揮下の北東部方面軍に配属。
108年5月 新野_堪囘卿指揮のもと鬱林_劉国即墨城攻略戦に参加。
108年9月 即墨平原の戦いにおいて、鬱林_劉軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 鬱林_劉領即墨を制圧。 功績により上士に昇進。
108年9月 新野_堪囘卿指揮のもと鬱林_劉国即墨城攻略戦に参加。
108年10月 朝歌の北東部方面軍を解任、首邑に戻る。
108年10月 成皋の地を拠点とする、潁川_乾岳中大夫揮下の北東部方面軍に配属。
108年11月 即墨城を包囲戦の末、陥落させる。
109年2月 新野_堪囘卿指揮のもと代郡_慶忌国黄城攻略戦に参加。
109年5月 息子の五原_東里貢が元服し河上_廖軍士を拝命。
109年6月 東來東の戦いにおいて、代郡_慶忌軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 代郡_慶忌領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
109年8月 成皋の北東部方面軍を解任、首邑に戻る。
109年8月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
109年9月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく野王の地への赴任が決まる。
109年10月 名将廣陵_張咸に感銘し、彼と行動を共にすることを決める。
109年11月 廣平_梁伶卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である韓原城に立て籠もる。
109年11月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 韓原城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年11月 韓原城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
109年12月 少梁の西部方面軍を解任、首邑に戻る。
110年1月 河上_廖艷公指揮の河上_廖軍に曲沃城を包囲される。
110年1月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
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