100年1月 当時 46歳、河上_廖艷に上士として仕える。 主君の友人であったと言われる。
100年2月 呉興_小王勃卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年3月 呉興_小王勃卿の指示によって、地元の支持を得るべく南鄭の地への赴任が決まる。
100年3月 南鄭の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
100年4月 河上_廖艷公の指示によって、地元の支持を得るべく南鄭の地への赴任が決まる。
100年6月 南鄭の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
100年7月 河上_廖艷公の指示によって、地元の経済の向上を目指し南鄭の地への赴任が決まる。
100年9月 南鄭の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
100年10月 河上_廖艷公の指示によって、地元の経済の向上を目指し南鄭の地への赴任が決まる。
100年12月 南鄭の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
101年1月 河上_廖艷公の指示によって、地元の経済の向上を目指し剣閣の地への赴任が決まる。
101年3月 剣閣の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
101年4月 河上_廖艷公の指示によって、地元の経済の向上を目指し方城の地への赴任が決まる。
101年6月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
102年2月 河上_廖艷公指揮のもと廬江_甫爽国剣閣城攻略戦に参加。
102年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、剣閣城攻略は断念。 兵を退く。
102年8月 広漢の戦いにおいて、廬江_甫爽軍と対戦。 左翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により下大夫に昇進。
102年9月 中山_學舎中大夫指揮のもと清河_張国郢城攻略戦に参加。
102年9月 城内への強行突入に成功、郢城を陥落させる。
103年1月 遼東_楊翼中大夫指揮のもと漢中_輔国宛城攻略戦に参加。
103年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、宛城攻略は断念。 兵を退く。
103年4月 黔中北の戦いにおいて、清河_張軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。 侵攻作戦は成功。 清河_張領黔中を制圧。
103年7月 遼東_楊翼中大夫指揮のもと漢中_輔国宛城攻略戦に参加。
103年7月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、宛城攻略は断念。 兵を退く。
103年10月 中山_學舎中大夫指揮のもと新城_公子国西陵城攻略戦に参加。
103年10月 城内への強行突入に成功、西陵城を陥落させる。
104年2月 中山_學舎中大夫指揮のもと新野_堪国咸陽城攻略戦に参加。
104年2月 城内への強行突入に成功、咸陽城を陥落させる。
104年5月 中山_學舎中大夫指揮のもと漢中_輔国宛城攻略戦に参加。
104年5月 城内への強行突入に成功、宛城を陥落させる。
104年9月 中山_學舎中大夫指揮のもと新野_堪国雍城攻略戦に参加。
104年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、雍城攻略は断念。 兵を退く。
105年3月 淮陽_陰參中大夫指揮のもと新野_堪国雍城攻略戦に参加。
105年3月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、雍城攻略は断念。 兵を退く。
105年6月 第2次六の戦いにおいて、陳留_盂軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 侵攻作戦は成功。 陳留_盂領六を制圧。 功績により上大夫に昇進。
105年9月 第3次城陽の戦いにおいて、高密_廖叔軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 侵攻作戦は成功。 高密_廖叔領城陽を制圧。 功績により卿に昇進。
105年10月 河上_廖国宰相の任を受ける。 同時に方面軍総司令官の任を解かれ、首邑に戻る。
105年10月 櫟城の戦いにおいて、武キ_懸潘軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
105年10月 隴西_季老邃を養子に迎える。
106年1月 泰山_張国膚施城攻略戦に着手。
106年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、膚施城攻略は断念。 兵を退く。
106年5月 陳留_盂国潁陽城攻略戦に着手。
106年5月 城内への強行突入に成功、潁陽城を陥落させる。
106年6月 第2次櫟城の戦いにおいて、武キ_懸潘軍と対戦。
106年9月 汝南_張国洛陽城攻略戦に着手。
106年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、洛陽城攻略は断念。 兵を退く。
106年12月 新野_堪国に降伏を促せ、自国に併合させる。
106年12月 汝南_郭国に降伏を促せ、自国に併合させる。
107年2月 廣川_張国に降伏を促せ、自国に併合させる。
107年3月 第2次洛陽の戦いにおいて、汝南_張軍と対戦。 陣頭に立つ、偽の退却で敵を包囲、戦力差で優る敵に、みごと勝利。
107年3月 汝南_張国洛陽城攻略戦に着手。
107年3月 城内への強行突入に成功、洛陽城を陥落させる。
107年3月 沛郡_晝国に降伏を促せ、自国に併合させる。
107年4月 泰山_張国に降伏を促せ、自国に併合させる。
107年4月 東安_雙国に降伏を促せ、自国に併合させる。
107年6月 南郡_將軍国邯鄲城攻略戦に着手。
107年10月 第3次邯鄲の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
108年1月 第4次邯鄲の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 陣頭に立つ、偽の退却で敵を包囲、勝利。
108年1月 南郡_將軍国邯鄲城攻略戦に着手。
108年1月 邯鄲城を包囲戦の末、陥落させる。
108年3月 南郡_將軍国に降伏を促せ、自国に併合させる。
108年4月 臨海_馬国鉅鹿城攻略戦に着手。
108年4月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、鉅鹿城攻略は断念。 兵を退く。
108年6月 国内の汝南_郭綏に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
108年8月 武キ_懸潘国函谷関城攻略戦に着手。
108年12月 第5次函谷関の戦いにおいて、武キ_懸潘軍と対戦。 陣頭に立つ、伏兵による奇襲で敵を分断する等、活躍し、戦力差で優る敵に、みごと勝利。
108年12月 武キ_懸潘国函谷関城攻略戦に着手。
109年2月 函谷関城を包囲戦の末、陥落させる。
109年2月 国内の武キ_懸潘弘に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
109年3月 国内の上谷_滕容に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
109年6月 国内の永昌_戴恵に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
109年7月 虞城の戦いにおいて、廣陵_張軍と対戦。
110年7月 代郡_慶忌国黄城攻略戦に着手。
110年11月 東來平原の戦いにおいて、代郡_慶忌軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 代郡_慶忌領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。 一度は捕らえられたが釈放される。
110年12月 第4次平陽の戦いにおいて、廣陵_張軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
111年1月 廣陵_張林中大夫率いる廣陵_張軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である宛城に立て籠もる。
111年2月 度重なる廣陵_張軍の猛攻から 宛城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
111年2月 宛城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
111年2月 宛の地を拠点とする方面軍は新たに中山_學舎卿が司令官に。
111年2月 宛の北東部方面軍を解任、首邑に戻る。
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