100年1月 当時 41歳、南郡_將軍翹に士として仕える。 卿の人事であったと言われる。
100年2月 廣陵_張咸卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年4月 廣陵_張咸卿の指示によって、地元の経済の向上を目指し雲中の地への赴任が決まる。
100年12月 成果を上げるどころか、失政をし、雲中の地をあとにする。 そのことを知った、廣陵_張咸卿が激怒。 10ヶ月の謹慎処分を受ける。
101年3月 廣陵_張咸卿の指示によって、地元の支持を得るべく楼煩の地への赴任が決まる。
101年6月 国内の信キ_強宣に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
101年8月 息子の義興_柏成欽が元服し南郡_將軍軍士を拝命。
101年8月 才より努力を持って、住民支持向上の成果をかろうじて上げ、 楼煩の地をあとにする。
101年10月 南郡_將軍翹公の指示によって、地元の支持を得るべく楼煩の地への赴任が決まる。
102年3月 住民支持向上の成果をかろうじて上げ、楼煩の地をあとにする。
102年5月 南郡_將軍翹公の指示によって、地元の支持を得るべく楼煩の地への赴任が決まる。
102年10月 住民支持向上の成果をかろうじて上げ、楼煩の地をあとにする。
102年11月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
103年2月 襄国の地を拠点とする、廣陵_張咸卿揮下の南部方面軍に配属。
103年4月 第2次東垣の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、敗戦。 象郡_賀領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
103年7月 南郡_將軍翹公指揮のもと象郡_賀国東垣城攻略戦に参加。
103年7月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、東垣城攻略は断念。 兵を退く。
104年2月 廣陵_張咸卿率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である絳城に立て籠もる。
104年2月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 絳城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
104年2月 絳城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
104年4月 南郡_將軍翹公率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である野王城に立て籠もる。
104年4月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 野王城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
104年4月 野王城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
104年5月 函谷関山の戦いにおいて、武キ_懸潘軍と対戦。 右翼を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。 武キ_懸潘領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
104年9月 呉郡_王竒上士指揮のもと武キ_懸潘国函谷関城攻略戦に参加。
105年1月 第2次函谷関の戦いにおいて、武キ_懸潘軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 武キ_懸潘領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 46歳。
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