101年9月 漢中_輔基公率いる漢中_輔軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である襄国城に立て籠もる。
101年9月 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 襄国城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年9月 襄国城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
101年12月 河東_徐達中大夫指揮のもと漢中_輔国蒲陽城攻略戦に参加。
101年12月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 蒲陽城攻略は断念。
102年3月 陳郡_陰覧上士指揮のもと漢中_輔国鉅鹿城攻略戦に参加。
102年3月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、鉅鹿城攻略は断念。 兵を退く。
102年9月 漢中_棘穰上大夫率いる象郡_賀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である代城に立て籠もる。
102年9月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 代城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年9月 代城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
103年4月 第2次東垣の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 父に随軍する形で左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 象郡_賀領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
103年6月 廣陵_張咸卿指揮のもと象郡_賀国鉅鹿城攻略戦に参加。
103年6月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、鉅鹿城攻略は断念。 兵を退く。
103年11月 第2次平陽の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 右翼騎を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 漢中_輔領平陽を制圧。
104年2月 廣陵_張咸卿指揮のもと漢中_輔国絳城攻略戦に参加。
104年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、絳城攻略は断念。 兵を退く。
104年9月 彭城_左史玄卿率いる象郡_賀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である代城に立て籠もる。
104年9月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 代城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
104年9月 代城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
104年10月 汝南_鄭援卿率いる象郡_賀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である楼煩城に立て籠もる。
104年10月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 楼煩城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年3月 彭城_左史玄卿率いる象郡_賀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である襄国城に立て籠もる。
105年3月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 襄国城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年3月 襄国城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年4月 襄国の南部方面軍を解任、首邑に戻る。
105年7月 東平_張統中大夫指揮のもと漢中_輔国絳城攻略戦に参加。
105年7月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、絳城攻略は断念。 兵を退く。
106年2月 廣陵_張咸卿指揮のもと尋陽_勒国太原城攻略戦に参加。
106年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、太原城攻略は断念。 兵を退く。
106年5月 襄国の地を拠点とする、隴西_王保上士揮下の南部方面軍に配属。
106年7月 第3次鉅鹿の戦いにおいて、臨海_馬軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 臨海_馬領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 21歳。
|