104年2月 廣陵_張咸卿率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である絳城に立て籠もる。
104年2月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 絳城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
104年2月 絳城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
104年3月 絳の北東部方面軍を解任、首邑に戻る。
104年3月 漢中_輔基公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
104年4月 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく成皋の地への赴任が決まる。
104年5月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
104年8月 汝南_張盤下大夫指揮のもと武キ_懸潘国臨晋城攻略戦に参加。
104年8月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、臨晋城攻略は断念。 兵を退く。
105年3月 父である漢中_輔基公指揮のもと武キ_懸潘国臨晋城攻略戦に参加。
105年5月 殷郡_梁融上士率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である洛陽城に立て籠もる。
105年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 洛陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年5月 洛陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年9月 第2次臨晋の戦いにおいて、武キ_懸潘軍と対戦。 父に随軍する形で参謀として全軍を指揮する、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、 敗戦。 武キ_懸潘領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり武キ_懸潘軍士として登用される。
105年10月 武キ_懸潘胤公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
105年10月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
105年12月 鉅野_魯樹中大夫指揮のもと汝南_張国韓原城攻略戦に参加。
105年12月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 韓原城攻略は断念。 兵を退く。
105年12月 武キ_懸潘胤公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
106年1月 代の南東部方面軍補佐の任を解任、首邑に戻る。
106年1月 代の南東部方面軍補佐の任を解任、首邑に戻る。
106年3月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
106年6月 第2次櫟城の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 前衛を担い奮戦するが、敗戦。 河上_廖領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
106年6月 武キ_懸潘胤公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
106年8月 臨晋の北部方面軍補佐の任を解任、首邑に戻る。
106年8月 淮陽_陰參卿指揮の河上_廖軍に函谷関城を包囲される。
106年8月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 函谷関城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年9月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
106年10月 武キ_懸潘胤公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
106年11月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
107年3月 第2次陝城の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 河上_廖領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
107年3月 武キ_懸潘胤公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
107年4月 北海_楊徇卿指揮の河上_廖軍に函谷関城を包囲される。
107年7月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
107年9月 臨晋の地を拠点とする、鉅野_魯樹中大夫揮下の北部方面軍に配属。
108年2月 淮陽_陰參卿指揮の河上_廖軍に臨晋城を包囲される。
108年2月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年3月 臨晋の北部方面軍を解任、首邑に戻る。
108年8月 隴西_季老混宰相指揮の河上_廖軍に函谷関城を包囲される。
108年9月 武キ_懸潘胤公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
108年9月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
108年12月 隴西_季老混宰相指揮の河上_廖軍に函谷関城を包囲される。
108年12月 国内の武キ_懸潘弘に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
109年2月 函谷関城は包囲戦の末、陥落。
109年2月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
111年2月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、河上_廖軍に仕官する。 彼が 43歳の時であった。
111年2月 琅邪の地を拠点とする、新野_堪儒下大夫揮下の北東部方面軍に配属。
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