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漢中_輔異
思想 野心 人望 智力 武力 名声
33 70 15 69 50 6
運と家督で地位を築く。

経歴    現在 43歳 河上_廖国 士

104年2月
 廣陵_張咸卿率いる南郡_將軍軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である城に立て籠もる。
   


104年2月
 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


104年2月
 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


104年3月
 絳の北東部方面軍を解任、首邑に戻る。
  


104年3月
 漢中_輔基公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


104年4月
 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく成皋の地への赴任が決まる。
  


104年5月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、
  前線の武官としての活躍を期待される。
   


104年8月
 汝南_張盤下大夫指揮のもと武キ_懸潘国臨晋城攻略戦に参加。
  


104年8月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、臨晋城攻略は断念。
  兵を退く。
   


105年3月
 父である漢中_輔基公指揮のもと武キ_懸潘国臨晋城攻略戦に参加。
  


105年5月
 殷郡_梁融上士率いる河上_廖軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である洛陽城に立て籠もる。
   


105年5月
 度重なる河上_廖軍の猛攻から 洛陽城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


105年5月
 洛陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


105年9月
 第2次臨晋の戦いにおいて、武キ_懸潘軍と対戦。
  父に随軍する形で参謀として全軍を指揮する、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、
   敗戦。
    武キ_懸潘領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
     捕虜となり武キ_懸潘軍士として登用される。
      


105年10月
 武キ_懸潘胤公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


105年10月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
  


105年12月
 鉅野_魯樹中大夫指揮のもと汝南_張国韓原城攻略戦に参加。
  


105年12月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、
  韓原城攻略は断念。
   兵を退く。
    


105年12月
 武キ_懸潘胤公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


106年1月
 代の南東部方面軍補佐の任を解任、首邑に戻る。
  


106年1月
 代の南東部方面軍補佐の任を解任、首邑に戻る。
  


106年3月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
  


106年6月
 第2次櫟城の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。
  前衛を担い奮戦するが、敗戦。
   河上_廖領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    


106年6月
 武キ_懸潘胤公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


106年8月
 臨晋の北部方面軍補佐の任を解任、首邑に戻る。
  


106年8月
 淮陽_陰參卿指揮の河上_廖軍に函谷関城を包囲される。
  


106年8月
 度重なる河上_廖軍の猛攻から 函谷関城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


106年9月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
  


106年10月
 武キ_懸潘胤公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


106年11月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
  


107年3月
 第2次陝城の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。
  右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。
   河上_廖領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    


107年3月
 武キ_懸潘胤公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


107年4月
 北海_楊徇卿指揮の河上_廖軍に函谷関城を包囲される。
  


107年7月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
  


107年9月
 臨晋の地を拠点とする、鉅野_魯樹中大夫揮下の北部方面軍に配属。
  


108年2月
 淮陽_陰參卿指揮の河上_廖軍に臨晋城を包囲される。
  


108年2月
 度重なる河上_廖軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


108年3月
 臨晋の北部方面軍を解任、首邑に戻る。
  


108年8月
 隴西_季老混宰相指揮の河上_廖軍に函谷関城を包囲される。
  


108年9月
 武キ_懸潘胤公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


108年9月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
  


108年12月
 隴西_季老混宰相指揮の河上_廖軍に函谷関城を包囲される。
  


108年12月
 国内の武キ_懸潘弘に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
  


109年2月
 函谷関城は包囲戦の末、陥落。
  


109年2月
 君主死亡。
  仕える国を無くし放浪する。
   


111年2月
 在野にて、諸国を彷徨っていた後、河上_廖軍に仕官する。
  彼が 43歳の時であった。
   


111年2月
 琅邪の地を拠点とする、新野_堪儒下大夫揮下の北東部方面軍に配属。
  


好意を持つ武将

武陵_胡瞻 享年 22歳 < 87〜 108 >
  
衡陽_李洛 享年 59歳 < 48〜 106 >
  
鉅野_魯莚 享年 20歳 < 90〜 109 >
  


好意を持たれている武将


鉅野_魯樹 現在 37歳 鉅野_魯国 公
  
鉅野_魯曠 現在 18歳 鉅野_魯国 士
  


敵視している武将


珠崖_謝鮑 享年 58歳 < 54〜 111 >
  国内の反目
天水_榮虞 現在 49歳 廣陵_張国 士
  国内の反目
武キ_懸潘胤 享年 46歳 < 64〜 109 >
  侵攻軍戦友


敵視されている武将


隴西_黄朝 現在 49歳 河上_廖国 士
  国内の反目
濟北_大戊祥 現在 18歳 河上_廖国 士
  親の影響