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廣陵_張咸
思想 野心 人望 智力 武力 名声
22 15 94 44 45 155
持ち前の明るさで人を引き付ける魅力にあふれる。物欲も一切なく自由奔放である。

経歴    現在 45歳 廣陵_張国 公

100年1月
 当時 34歳、南郡_將軍翹に卿として仕える。
  卿適任であったと言われる。
   


100年6月
 鉅鹿の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。
  陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   侵攻作戦は成功。
    呉郡_董領鉅鹿を制圧。
     


100年9月
 第2次晋陽の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。
  陣頭に立つ、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


100年9月
 国内の南康_馮に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
  


100年12月
 第3次晋陽の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。
  陣頭に立つ、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


101年3月
 第4次晋陽の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。
  右翼を担い、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


101年4月
 汝南_鄭統中大夫率いる漢中_輔軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である襄国城に立て籠もる。
   


101年8月
 駆けつけた援軍部隊が勝利し、漢中_輔軍は撤退。
  


101年8月
 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


101年9月
 漢中_輔基公率いる漢中_輔軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、
  野戦をあきらめ、国境である襄国城に立て籠もる。
   


101年9月
 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 襄国城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


101年9月
 襄国城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


101年10月
 沮陽の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。
  陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。
   


102年1月
 南郡_將軍翹公指揮のもと漢中_輔国沮陽城攻略戦に参加。
  


102年2月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、沮陽城攻略は断念。
  兵を退く。
   


102年5月
 漢中_輔国平陽城攻略戦に着手。
  


102年5月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、平陽城攻略は断念。
  兵を退く。
   


102年8月
 東垣の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。
  陣頭に立つ奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。
   


102年9月
 汝南_鄭統中大夫率いる象郡_賀軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である襄国城に立て籠もる。
   


102年12月
 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 襄国城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


102年12月
 襄国城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


103年3月
 楼煩の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく象郡_賀軍と対戦。
  


103年6月
 象郡_賀国鉅鹿城攻略戦に着手。
  


103年6月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、鉅鹿城攻略は断念。
  兵を退く。
   


103年11月
 第2次平陽の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。
  陣頭に立つ、勝利。
   


104年2月
 漢中_輔国城攻略戦に着手。
  


104年9月
 彭城_左史玄卿率いる象郡_賀軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である城に立て籠もる。
   


104年9月
 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


104年9月
 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


104年10月
 汝南_鄭援卿率いる象郡_賀軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である楼煩城に立て籠もる。
   


104年10月
 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 楼煩城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


105年3月
 汝南_鄭援卿率いる象郡_賀軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、
  野戦をあきらめ、国境である城に立て籠もる。
   


105年3月
 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


105年3月
 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


105年4月
 の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
  


105年7月
 第2次楼煩の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。
  


106年2月
 尋陽_勒国太原城攻略戦に着手。
  


106年2月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、太原城攻略は断念。
  兵を退く。
   


106年7月
 の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
  


107年3月
 上谷_滕晞卿率いる河上_廖軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である曲沃城に立て籠もる。
   


107年3月
 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


107年3月
 曲沃城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


107年4月
 曲沃の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
  


107年9月
 中山_學舎卿率いる河上_廖軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である曲沃城に立て籠もる。
   


107年9月
 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


107年9月
 曲沃城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


107年10月
 第3次邯鄲の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。
  参謀として全軍を指揮する、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


107年11月
 濮陽の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。
  右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


107年12月
 第2次絳の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。
  左翼を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。
   


107年12月
 敵侵攻によって孤立した曲沃の地で暫定自治を始める。
  


108年3月
 中山_學舎卿指揮の河上_廖軍に曲沃城を包囲される。
  


108年3月
 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


108年3月
 合流先を失い、独立を決意。
  


108年6月
 地方叛乱軍指導者であった尋陽_勒耀が同志となり戦力が増す。
  


108年8月
 息子の廣陵_張混が元服し廣陵_張軍卿を拝命。
  


108年10月
 河上_廖延卿指揮の河上_廖軍に曲沃城を包囲される。
  


108年10月
 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


109年7月
 虞城の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。
  陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
   河上_廖領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    


109年10月
 曲沃の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。
  陣頭に立つ、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


110年1月
 河上_廖艷公指揮の河上_廖軍に曲沃城を包囲される。
  


110年1月
 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


110年5月
 息子の廣陵_張謨が元服し廣陵_張軍中大夫を拝命。
  


110年7月
 息子の廣陵_張林が元服し廣陵_張軍中大夫を拝命。
  


110年8月
 第2次蒲陽の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。
  陣頭に立つ、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


110年12月
 第4次平陽の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。
  陣頭に立つ、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。
   河上_廖領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    


好意を持つ武将

昌黎_董禮 享年 43歳 < 66〜 108 >
  国内同世代の友情
合浦_嬰亨 享年 57歳 < 51〜 108 >
  迎撃軍戦友
東平_張相 享年 22歳 < 86〜 107 >
  国内の友情


好意を持たれている武将


廣陵_張混 現在 18歳 廣陵_張国 卿
  君主、方面軍への忠誠
陰平_韓幽 現在 35歳 河上_廖国 邑宰
  同派閥の好意
東莞_劉劭 現在 62歳 廣陵_張国 下大夫
  君主、方面軍への忠誠


敵視している武将


河上_廖艷 現在 42歳 河上_廖国 公
  敵対国嫌悪
隴西_季老混 現在 57歳 河上_廖国 宰相
  侵攻軍敗戦による敵意 敵参謀
中山_學舎 現在 54歳 河上_廖国 卿
  侵攻軍敗戦による敵意 君主から敵将


敵視されている武将


河上_廖艷 現在 42歳 河上_廖国 公
  敵対国嫌悪
昌黎_董升 現在 25歳 代郡_慶忌国 士
  侵攻軍敗戦による敵意 敵参謀
始平_張正 現在 50歳 廣陵_張国 士