100年1月 当時 34歳、南郡_將軍翹に卿として仕える。 卿適任であったと言われる。
100年6月 鉅鹿の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 呉郡_董領鉅鹿を制圧。
100年9月 第2次晋陽の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
100年9月 国内の南康_馮に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
100年12月 第3次晋陽の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 陣頭に立つ、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
101年3月 第4次晋陽の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
101年4月 汝南_鄭統中大夫率いる漢中_輔軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である襄国城に立て籠もる。
101年8月 駆けつけた援軍部隊が勝利し、漢中_輔軍は撤退。
101年8月 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
101年9月 漢中_輔基公率いる漢中_輔軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である襄国城に立て籠もる。
101年9月 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 襄国城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年9月 襄国城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
101年10月 沮陽の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。
102年1月 南郡_將軍翹公指揮のもと漢中_輔国沮陽城攻略戦に参加。
102年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、沮陽城攻略は断念。 兵を退く。
102年5月 漢中_輔国平陽城攻略戦に着手。
102年5月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、平陽城攻略は断念。 兵を退く。
102年8月 東垣の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。
102年9月 汝南_鄭統中大夫率いる象郡_賀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である襄国城に立て籠もる。
102年12月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 襄国城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年12月 襄国城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
103年3月 楼煩の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく象郡_賀軍と対戦。
103年6月 象郡_賀国鉅鹿城攻略戦に着手。
103年6月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、鉅鹿城攻略は断念。 兵を退く。
103年11月 第2次平陽の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。
104年2月 漢中_輔国絳城攻略戦に着手。
104年9月 彭城_左史玄卿率いる象郡_賀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である代城に立て籠もる。
104年9月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 代城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
104年9月 代城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
104年10月 汝南_鄭援卿率いる象郡_賀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である楼煩城に立て籠もる。
104年10月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 楼煩城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年3月 汝南_鄭援卿率いる象郡_賀軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である代城に立て籠もる。
105年3月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 代城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年3月 代城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年4月 代の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
105年7月 第2次楼煩の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。
106年2月 尋陽_勒国太原城攻略戦に着手。
106年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、太原城攻略は断念。 兵を退く。
106年7月 代の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
107年3月 上谷_滕晞卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である曲沃城に立て籠もる。
107年3月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
107年3月 曲沃城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
107年4月 曲沃の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
107年9月 中山_學舎卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である曲沃城に立て籠もる。
107年9月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
107年9月 曲沃城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
107年10月 第3次邯鄲の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
107年11月 濮陽の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
107年12月 第2次絳の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。
107年12月 敵侵攻によって孤立した曲沃の地で暫定自治を始める。
108年3月 中山_學舎卿指揮の河上_廖軍に曲沃城を包囲される。
108年3月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年3月 合流先を失い、独立を決意。
108年6月 地方叛乱軍指導者であった尋陽_勒耀が同志となり戦力が増す。
108年8月 息子の廣陵_張混が元服し廣陵_張軍卿を拝命。
108年10月 河上_廖延卿指揮の河上_廖軍に曲沃城を包囲される。
108年10月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年7月 虞城の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 河上_廖領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
109年10月 曲沃の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
110年1月 河上_廖艷公指揮の河上_廖軍に曲沃城を包囲される。
110年1月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
110年5月 息子の廣陵_張謨が元服し廣陵_張軍中大夫を拝命。
110年7月 息子の廣陵_張林が元服し廣陵_張軍中大夫を拝命。
110年8月 第2次蒲陽の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
110年12月 第4次平陽の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 陣頭に立つ、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 河上_廖領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
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