100年1月 当時 30歳、新城_公子貔に上士として仕える。 主君を慕ってであったと言われる。
100年2月 賛同する南陽_具恭下大夫のはからいにより、 陽楽の地を拠点とする新興_西王j卿揮下、 北部方面軍に配属が決まる。
100年3月 曲阜の戦いにおいて、陳留_盂軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
100年4月 陽楽の地の方面軍を解任、首都に戻る。
100年4月 新城_公子貔公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年7月 新城_公子貔公の指示によって、地元の支持を得るべく薛の地への赴任が決まる。
100年11月 薛の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
100年12月 新興_西王j宰相の指示によって、地元の経済の向上を目指し曲阜の地への赴任が決まる。
101年1月 曲阜の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
101年5月 新興_西王j宰相の指示によって、地元の支持を得るべく昌国の地への赴任が決まる。
101年8月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
101年10月 高密の地を拠点とする、南陽_具恭中大夫揮下の南東部方面軍に配属。
101年11月 通路_爬羨上大夫指揮のもと漢中_輔国武城城攻略戦に参加。
101年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 武城城攻略は断念。 兵を退く。
102年5月 国内の淮陽_陰參に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
102年7月 第2次武城の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 象郡_賀領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
102年7月 定陶の戦いにおいて、金城_浩軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 最後尾で殿を努める。
102年10月 高唐の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 右翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 33歳。
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