100年1月 当時 61歳、陳留_盂祕に上大夫として仕える。 主君の友人であったと言われる。
100年3月 曲阜の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 新城_公子領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
100年6月 高陽の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 高陽地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
100年8月 琅邪の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
100年12月 新城_公子貔公率いる新城_公子軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である雎陽城に立て籠もる。
100年12月 度重なる新城_公子軍の猛攻から 雎陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
100年12月 雎陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
101年9月 淮陽_陰參上大夫率いる新城_公子軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である琅邪城に立て籠もる。
101年9月 度重なる新城_公子軍の猛攻から 琅邪城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年9月 琅邪城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
103年5月 君主側近の者への賄賂等、出世工作が実り卿に昇進。
103年6月 琅邪の北東部方面軍を解任、首邑に戻る。
103年11月 新城_公子国曲阜城攻略戦に着手。
103年11月 城内への強行突入に成功、曲阜城を陥落させる。
104年3月 蜀郡_斯棘を養子に迎える。
104年4月 新城_公子国大梁城攻略戦に着手。
104年4月 城内への強行突入に成功、大梁城を陥落させる。
105年4月 南陽_具国定陶城攻略戦に着手。
105年11月 建寧_委賓上士率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である潁陽城に立て籠もる。
106年2月 国内の常山_盈鴦に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
106年3月 駆けつけた援軍部隊が勝利し、河上_廖軍は撤退。
106年3月 潁陽西の攻防戦において、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 右翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
106年4月 舒西の攻防戦において、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。 捕虜となり河上_廖軍士として登用される。 功績により上士に昇進。
106年4月 国内の廬江_樊序に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
106年5月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
106年6月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく寿春の地への赴任が決まる。
106年7月 国内の北海_楊嵩に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
106年8月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
107年2月 淮陽_陰參卿指揮のもと汝南_張国陽擢城攻略戦に参加。
107年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、陽擢城攻略は断念。 兵を退く。
107年3月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
107年4月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく夷陵の地への赴任が決まる。
107年5月 国内の天水_革滔に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
107年9月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
107年10月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
107年11月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく宛の地への赴任が決まる。
108年1月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
108年3月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
108年4月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく洛陽の地への赴任が決まる。
108年11月 住民らの華美を過剰に取り締まり反感を買うなど失政をし、 洛陽の地をあとにする。 そのことを知った、隴西_季老混宰相が激怒。 5ヶ月の謹慎処分を受ける。
109年1月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく彭城の地への赴任が決まる。
109年3月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
109年6月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
109年7月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく舒の地への赴任が決まる。
110年1月 住民支持向上の成果をかろうじて上げ、舒の地をあとにする。
110年1月 文官としての功績が評価され、下大夫に昇進。
110年2月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
110年5月 風洪卿指揮のもと廣陵_張国絳城攻略戦に参加。
110年5月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、絳城攻略は断念。 兵を退く。
110年5月 国内の東平_師丁に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
111年2月 陽擢の地を拠点とする方面軍に配属が決まる。
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