100年1月 当時 34歳、新城_公子貔に下大夫として仕える。 武力評価での昇進であったと言われる。
100年3月 曲阜の戦いにおいて、陳留_盂軍と対戦。 右翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により中大夫に昇進。
100年3月 東來の戦いにおいて、巴郡_忌軍と対戦。 前衛を担い奮戦するが、敗戦。
100年4月 新城_公子貔公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年4月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
100年6月 高陽の戦いにおいて、陳留_盂軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 陳留_盂領高陽を制圧。
100年7月 薊の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、敗戦。 最後尾で殿を努める。
100年8月 武城の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 陣頭に立つ、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。 武城地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
100年11月 薛東の攻防戦において、陳留_盂軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 薛地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
101年1月 第2次曲阜の戦いにおいて、陳留_盂軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
101年2月 国内の任城_柳詢に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
101年3月 第3次昌国の戦いにおいて、巴郡_忌軍と対戦。 右翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 侵攻作戦は成功。 巴郡_忌領昌国を制圧。
101年3月 第2次高陽の戦いにおいて、陳留_盂軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
101年6月 北海_楊徇下大夫率いる陳留_盂朝彭城帝国軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である高陽城に立て籠もる。
101年6月 度重なる陳留_盂朝彭城帝国軍の猛攻から 高陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年6月 高陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
101年9月 陳留_盂国琅邪城攻略戦に着手。
101年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、琅邪城攻略は断念。 兵を退く。
101年12月 陳留_盂祕王率いる陳留_盂朝彭城帝国軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である高陽城に立て籠もる。
101年12月 度重なる陳留_盂朝彭城帝国軍の猛攻から 高陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年12月 高陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
101年12月 国内の零陵_適信に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
102年1月 高陽の地を拠点とする方面軍は新たに新興_西王j宰相が司令官に。
102年3月 新興_西王愼上大夫指揮のもと漢中_輔国薊城攻略戦に参加。
102年4月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、薊城攻略は断念。 兵を退く。
102年5月 国内の清河_窄述に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
102年7月 定陶の戦いにおいて、金城_浩軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、 敗戦。
102年7月 敵侵攻によって孤立した高陽の地において、 暫定自治を始めた新興_西王j卿に従うことになる。
102年10月 無事、領土を守り、新城_公子貔公に合流。
103年1月 南皮の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
103年4月 臨鯔の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 右翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
103年5月 濮陽東の戦いにおいて、金城_浩軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
103年5月 金城_浩国濮陽城攻略戦に着手。
103年10月 中山_學舎中大夫率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である西陵城に立て籠もる。
103年10月 河上_廖軍の猛攻を防ぎきれず、西陵城は落城する。
103年10月 河上_廖国に西陵を制圧され降伏。 捕虜となるも助命され河上_廖軍中大夫を拝命。
104年2月 中山_學舎中大夫指揮のもと新野_堪国咸陽城攻略戦に参加。
104年2月 城内への強行突入に成功、咸陽城を陥落させる。
104年5月 中山_學舎中大夫指揮のもと漢中_輔国宛城攻略戦に参加。
104年5月 城内への強行突入に成功、宛城を陥落させる。
104年5月 国内の建寧_委賓に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
104年9月 中山_學舎中大夫指揮のもと新野_堪国雍城攻略戦に参加。
104年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、雍城攻略は断念。 兵を退く。
104年11月 公河上_廖艷に今後の忠誠を誓う。
105年3月 新野_堪国雍城攻略戦に着手。
105年3月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、雍城攻略は断念。 兵を退く。
105年9月 第3次城陽の戦いにおいて、高密_廖叔軍と対戦。 左翼を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 高密_廖叔領城陽を制圧。 功績により上大夫に昇進。
105年10月 咸陽の戦いにおいて、隴西_嗇軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 侵攻作戦は成功。
105年10月 隴西_嗇国咸陽城攻略戦に着手。
105年10月 城内への強行突入に成功、咸陽城を陥落させる。
106年5月 陳留_盂国寿春城攻略戦に着手。
106年5月 城内への強行突入に成功、寿春城を陥落させる。
106年8月 武キ_懸潘国函谷関城攻略戦に着手。
106年8月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、函谷関城攻略は断念。 兵を退く。
107年2月 汝南_張国陽擢城攻略戦に着手。
107年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、陽擢城攻略は断念。 兵を退く。
107年3月 第2次陝城の戦いにおいて、武キ_懸潘軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
107年10月 この月の人事で、河上_廖国、文官として処務にあたる任を司る。
107年11月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく洛陽の地への赴任が決まる。
107年12月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
108年2月 武キ_懸潘国臨晋城攻略戦に着手。
108年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、臨晋城攻略は断念。 兵を退く。
108年5月 代郡_慶忌国黄城攻略戦に着手。
108年5月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、黄城攻略は断念。 兵を退く。
108年11月 臨海_馬国鉅鹿城攻略戦に着手。
108年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 鉅鹿城攻略は断念。 兵を退く。
109年11月 息子の淮陽_陰越が元服し河上_廖軍上大夫を拝命。
110年2月 息子の淮陽_陰全が元服し河上_廖軍下大夫を拝命。
110年5月 風洪卿指揮のもと廣陵_張国絳城攻略戦に参加。
110年5月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、絳城攻略は断念。 兵を退く。
110年5月 息子の淮陽_陰敞が元服し河上_廖軍下大夫を拝命。
111年2月 国内の北海_翰亭に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
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