102年2月 動乱の時代に自分の力を試したく、義勇兵を募り挙兵。 新城_公子貔の目に掛かり仕官。
102年3月 高密の地を拠点とする、清河_窄述上士揮下の南東部方面軍に配属。
102年3月 新城_公子軍国邯鄲城攻略戦に着手。
102年8月 聊城の戦いにおいて、金城_浩軍と対戦。
102年11月 清河_喬敬士指揮のもと新城_公子軍国新鄭城攻略戦に参加。
102年12月 清河_喬敬士指揮のもと新城_公子軍国大梁城攻略戦に参加。
103年1月 第2次高唐の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 高唐地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
103年4月 臨鯔の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
103年8月 上郡_宋都宰相指揮のもと高密_廖叔国城陽城攻略戦に参加。
104年2月 北海_楊徇下大夫率いる陳留_盂朝彭城帝国軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である潁陽城に立て籠もる。
104年2月 度重なる陳留_盂朝彭城帝国軍の猛攻から 潁陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
104年2月 潁陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
104年3月 潁陽の南西部方面軍を解任、首邑に戻る。
104年4月 第3次聊城の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 聊城地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
104年4月 第2次臨鯔の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 左翼騎を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。
104年4月 汝南_鄭援卿指揮の象郡_賀軍に臨鯔城を包囲される。
104年9月 南郡_癸逸下大夫率いる陳留_盂朝彭城帝国軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である高密城に立て籠もる。
105年2月 駆けつけた援軍部隊が勝利し、彭城帝国軍は撤退。
105年2月 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年3月 第3次臨鯔の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 右翼騎を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
105年5月 第2次邯鄲の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 呉郡_董領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
105年7月 君主死亡。 特に従う人物も無く、放浪を始める。
108年1月 南郡_將軍翹の支配する雲中の地を訪れる。 酒場でのやりとりなどから臨海_馬軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年2月 陳留_盂祕の支配する会稽の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから武キ_懸潘軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年3月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、尋陽_勒軍に仕官する。 彼が 38歳の時であった。
108年3月 廣平_梁全上大夫指揮の河上_廖軍に太原城を包囲される。
108年3月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 太原城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年10月 河上_廖延卿指揮の河上_廖軍に曲沃城を包囲される。
108年10月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年5月 蒲陽の地に赴任。
110年4月 廣平_梁伶卿指揮の河上_廖軍に蒲陽城を包囲される。
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