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汝南_鄭援
思想 野心 人望 智力 武力 名声
54 26 88 30 40 115
人をのせるのが上手い。物欲も一切なく自由奔放である。

経歴    現在 48歳 汝南_鄭国 公

100年1月
 当時 37歳、漢中_輔基に上大夫として仕える。
  主君の友人であったと言われる。
   


100年3月
 晋陽の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。
  陣頭に立つ奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。
   呉郡_董領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    


100年5月
 息子の汝南_鄭統が元服し漢中_輔軍中大夫を拝命。
  


100年6月
 この月の人事で、漢中_輔国、文官として処務にあたる任を司る。
  


100年7月
 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく陽擢の地への赴任が決まる。
  


100年7月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、
  前線の武官としての活躍を期待される。
   


100年10月
 朝歌森の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。
  陣頭に立つ、勝利。
   侵攻作戦は成功。
    呉郡_董領朝歌を制圧。
     


100年11月
 国内の平干_孫聯に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
  


100年12月
 第3次晋陽の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。
  陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
   南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    


101年1月
 函谷関の戦いにおいて、廬江_甫爽軍と対戦。
  陣頭に立つ、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。
   函谷関地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
    


101年1月
 息子の汝南_鄭澄が元服し漢中_輔軍上士を拝命。
  


101年4月
 南郡_將軍国督亢城攻略戦に着手。
  


101年4月
 城内への強行突入に成功、督亢城を陥落させる。
  


101年8月
 この月の人事で、漢中_輔国、文官として処務にあたる任を司る。
  


101年9月
 漢中_輔基公の指示によって、地元の経済の向上を目指し平陽の地への赴任が決まる。
  


101年12月
 河東_徐達中大夫率いる南郡_將軍軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である蒲陽城に立て籠もる。
   


101年12月
 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 蒲陽城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


102年1月
 南郡_將軍翹公率いる南郡_將軍軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である沮陽城に立て籠もる。
   


102年2月
 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 沮陽城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


102年3月
 陳郡_陰覧上士率いる南郡_將軍軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である鉅鹿城に立て籠もる。
   


102年3月
 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


102年3月
 鉅鹿城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


102年3月
 敵侵攻によって孤立した督亢の地において、
  暫定自治を始めた漢中_棘穰上大夫に従うことになる。
   


102年4月
 同じ暫定自治を行っていた、象郡_賀沛公に合流する。
  


102年7月
 第2次武城の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。
  前衛を担い、戦力差で優る敵に、みごと勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


102年8月
 国内の漢中_羅喬に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
  


102年9月
 漢中_棘穰上大夫指揮のもと南郡_將軍国城攻略戦に参加。
  


102年9月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、城攻略は断念。
  兵を退く。
   


102年11月
 公象郡_賀沛に今後の忠誠を誓う。
  


103年1月
 第2次高唐の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。
  右翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。
   侵攻作戦は成功。
    新城_公子領高唐を制圧。
     


103年4月
 第2次沮陽の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。
  陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    功績により卿に昇進。
     


103年6月
 廣陵_張咸卿指揮の南郡_將軍軍に鉅鹿城を包囲される。
  


103年7月
 南郡_將軍翹公率いる南郡_將軍軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である東垣城に立て籠もる。
   


103年7月
 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 東垣城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


103年10月
 新城_公子貔公率いる新城_公子軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である高唐城に立て籠もる。
   


103年10月
 度重なる新城_公子軍の猛攻から 高唐城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


103年10月
 高唐城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


104年4月
 第2次臨鯔の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。
  陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   


104年4月
 新城_公子国臨鯔城攻略戦に着手。
  


104年7月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、臨鯔城攻略は断念。
  兵を退く。
   


104年10月
 南郡_將軍国楼煩城攻略戦に着手。
  


104年10月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、
  楼煩城攻略は断念。
   兵を退く。
    


105年3月
 南郡_將軍国城攻略戦に着手。
  


105年3月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、城攻略は断念。
  兵を退く。
   


105年6月
 第4次聊城の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。
  陣頭に立つ、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。
   侵攻作戦は成功。
    呉郡_董領聊城を制圧。
     


105年7月
 君主象郡_賀特死亡。
  任地であった臨鯔の地で旗揚げをする。
   


105年7月
 任地であった臨鯔の守備を汝南_鄭統中大夫に任せ、
  自身は首邑であったへと戻る。
   


106年2月
 東平_張統中大夫指揮の南郡_將軍軍に城を包囲される。
  


106年2月
 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


107年2月
 息子の汝南_鄭欽が元服し汝南_鄭軍中大夫を拝命。
  


108年4月
 息子の汝南_鄭相が元服し汝南_鄭軍中大夫を拝命。
  


108年6月
 廣平_梁伶卿指揮の河上_廖軍に城を包囲される。
  


108年6月
 度重なる河上_廖軍の猛攻から 城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


109年1月
 廣平_梁全上大夫指揮の河上_廖軍に城を包囲される。
  


109年1月
 度重なる河上_廖軍の猛攻から 城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


110年7月
 上谷_滕晞卿指揮の河上_廖軍に城を包囲される。
  


110年7月
 度重なる河上_廖軍の猛攻から 城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


好意を持つ武将

象郡_賀沛 享年 72歳 < 34〜 105 >
  君主、方面軍への忠誠
代郡_慶忌招 現在 41歳 代郡_慶忌国 公
  同盟による好感
漢中_輔基 享年 55歳 < 50〜 105 >
  君主、方面軍への忠誠


好意を持たれている武将


汝南_鄭相 現在 18歳 汝南_鄭国 中大夫
  君主、方面軍への忠誠
代郡_慶忌招 現在 41歳 代郡_慶忌国 公
  同盟による好感
設屏_飛廉昭 現在 32歳 汝南_鄭国 士
  迎撃軍戦友


敵視している武将


河上_廖艷 現在 42歳 河上_廖国 公
  敵対国嫌悪
南郡_將軍翹 享年 51歳 < 59〜 109 >
  配下戦死による相手国への怒り
汝陰_李損 享年 55歳 < 46〜 100 >
  侵攻軍敗戦による敵意 敵参謀


敵視されている武将


河上_廖艷 現在 42歳 河上_廖国 公
  敵対国嫌悪
丹陽_張據 現在 42歳 廣陵_張国 邑宰
  
新城_公子腆 現在 15歳 在野にて人脈を広げる
  親の影響