100年1月 当時 37歳、漢中_輔基に上大夫として仕える。 主君の友人であったと言われる。
100年3月 晋陽の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 呉郡_董領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
100年5月 息子の汝南_鄭統が元服し漢中_輔軍中大夫を拝命。
100年6月 この月の人事で、漢中_輔国、文官として処務にあたる任を司る。
100年7月 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく陽擢の地への赴任が決まる。
100年7月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
100年10月 朝歌森の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 侵攻作戦は成功。 呉郡_董領朝歌を制圧。
100年11月 国内の平干_孫聯に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
100年12月 第3次晋陽の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
101年1月 函谷関の戦いにおいて、廬江_甫爽軍と対戦。 陣頭に立つ、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。 函谷関地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
101年1月 息子の汝南_鄭澄が元服し漢中_輔軍上士を拝命。
101年4月 南郡_將軍国督亢城攻略戦に着手。
101年4月 城内への強行突入に成功、督亢城を陥落させる。
101年8月 この月の人事で、漢中_輔国、文官として処務にあたる任を司る。
101年9月 漢中_輔基公の指示によって、地元の経済の向上を目指し平陽の地への赴任が決まる。
101年12月 河東_徐達中大夫率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である蒲陽城に立て籠もる。
101年12月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 蒲陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年1月 南郡_將軍翹公率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である沮陽城に立て籠もる。
102年2月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 沮陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年3月 陳郡_陰覧上士率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である鉅鹿城に立て籠もる。
102年3月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年3月 鉅鹿城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
102年3月 敵侵攻によって孤立した督亢の地において、 暫定自治を始めた漢中_棘穰上大夫に従うことになる。
102年4月 同じ暫定自治を行っていた、象郡_賀沛公に合流する。
102年7月 第2次武城の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 前衛を担い、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
102年8月 国内の漢中_羅喬に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
102年9月 漢中_棘穰上大夫指揮のもと南郡_將軍国代城攻略戦に参加。
102年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、代城攻略は断念。 兵を退く。
102年11月 公象郡_賀沛に今後の忠誠を誓う。
103年1月 第2次高唐の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 右翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 侵攻作戦は成功。 新城_公子領高唐を制圧。
103年4月 第2次沮陽の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により卿に昇進。
103年6月 廣陵_張咸卿指揮の南郡_將軍軍に鉅鹿城を包囲される。
103年7月 南郡_將軍翹公率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である東垣城に立て籠もる。
103年7月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 東垣城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
103年10月 新城_公子貔公率いる新城_公子軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である高唐城に立て籠もる。
103年10月 度重なる新城_公子軍の猛攻から 高唐城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
103年10月 高唐城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
104年4月 第2次臨鯔の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
104年4月 新城_公子国臨鯔城攻略戦に着手。
104年7月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、臨鯔城攻略は断念。 兵を退く。
104年10月 南郡_將軍国楼煩城攻略戦に着手。
104年10月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 楼煩城攻略は断念。 兵を退く。
105年3月 南郡_將軍国代城攻略戦に着手。
105年3月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、代城攻略は断念。 兵を退く。
105年6月 第4次聊城の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 陣頭に立つ、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 呉郡_董領聊城を制圧。
105年7月 君主象郡_賀特死亡。 任地であった臨鯔の地で旗揚げをする。
105年7月 任地であった臨鯔の守備を汝南_鄭統中大夫に任せ、 自身は首邑であった薊へと戻る。
106年2月 東平_張統中大夫指揮の南郡_將軍軍に薊城を包囲される。
106年2月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 薊城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
107年2月 息子の汝南_鄭欽が元服し汝南_鄭軍中大夫を拝命。
108年4月 息子の汝南_鄭相が元服し汝南_鄭軍中大夫を拝命。
108年6月 廣平_梁伶卿指揮の河上_廖軍に薊城を包囲される。
108年6月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 薊城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年1月 廣平_梁全上大夫指揮の河上_廖軍に薊城を包囲される。
109年1月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 薊城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
110年7月 上谷_滕晞卿指揮の河上_廖軍に薊城を包囲される。
110年7月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 薊城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
|