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遼東_宛術
思想 野心 人望 智力 武力 名声
-11 83 61 32 56 65
非常に野心家で危険な存在。自分が思っている程の実力は無い。

経歴    享年 23歳 < 127〜 150 >

145年1月
 当時 18歳、隴西_秦演に士として仕える。
  武力評価での昇進であったと言われる。
   


145年2月
 この月の人事で、隴西_秦国、文官として処務にあたる任を司る。
  


145年6月
 象郡_許如下大夫指揮の河内_李朝昌陽帝国軍に合治城を包囲される。
  


145年11月
 導江_耿信士指揮の河内_李朝昌陽帝国軍に合治城を包囲される。
  


145年11月
 度重なる河内_李朝昌陽帝国軍の猛攻から 合治城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


146年7月
 巴西_相里武宰相指揮の河内_李朝昌陽帝国軍に合治城を包囲される。
  


146年7月
 河内_李朝昌陽帝国軍の猛攻を防ぎきれず、合治城は落城する。
  


146年7月
 君主死亡。
  仕える国を無くし放浪する。
   


147年10月
 隴西_樊憲の支配する賛治の地を訪れる。
  酒場でのやりとりなどから隴西_樊軍の人物関係をそれとなく理解する。
   


147年11月
 河内_閭昭の支配する宜春の地を訪れる。
  この地の知者との話などから隴西_樊軍の人物関係をそれとなく理解する。
   


147年12月
 東海_召毅の支配する江陽の地を訪れる。
  泊まった宿の主人の話などから代郡_韓軍の人物関係をそれとなく理解する。
   


148年1月
 東陽_杜勝の支配する鉅野の地を訪れる。
  住民との会話などから東陽_杜軍の人物関係をそれとなく理解する。
   


148年2月
 在野にて、諸国を彷徨っていた後、隴西_樊軍に仕官する。
  彼が 22歳の時であった。
   


148年2月
 配属先が決まり、武官として準備するよう通達される。
  


148年2月
 汝陽の地を拠点とする、陳郡_盧侯下大夫揮下の東部方面軍に配属。
  


148年6月
 武キ_田恕中大夫指揮のもと安豐_宋国聊城城攻略戦に参加。
  


148年6月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、聊城城攻略は断念。
  兵を退く。
   


148年7月
 汝陽の東部方面軍を解任、首邑に戻る。
  


148年9月
 楡次の戦いにおいて、江夏_頓軍と対戦。
  左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   侵攻作戦は成功。
    江夏_頓領楡次を制圧。
     功績により上士に昇進。
      


148年10月
 隴西_樊憲公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


148年11月
 隴西_樊憲公の指示によって、地元の支持を得るべく觀治の地への赴任が決まる。
  


148年11月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、
  前線の武官としての活躍を期待される。
   


149年3月
 魏郡_羽式上大夫指揮のもと安豐_宋国聊城城攻略戦に参加。
  


149年3月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、聊城城攻略は断念。
  兵を退く。
   


149年6月
 国内の武キ_田恕に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
  


149年7月
 賛同する武キ_田恕中大夫のはからいにより、
  成陽の地を拠点とする武キ_田恕中大夫揮下、
   南部方面軍に配属が決まる。
    


149年9月
 第3次聊城の戦いにおいて、隴西_樊軍援軍として安豐_宋軍と対戦。
  後衛を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。
   侵攻作戦は成功。
    安豐_宋領聊城を制圧。
     


149年12月
 乘氏の戦いにおいて、長沙_紀軍と対戦。
  陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
   長沙_紀領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    


150年5月
 始成山の戦いにおいて、隴西_樊軍援軍として安豐_宋軍と対戦。
  参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。
   


150年6月
 成陽東の攻防戦において、長沙_紀軍と対戦。
  前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    自身は乱戦の中、戦死。
     享年 23歳。
      


好意を持つ武将

無し



好意を持たれている武将


淮南_李沖 現在 55歳 遼東_楊国 邑宰
  
上黨_蹇遷 現在 36歳 呉郡_將梁国 邑宰
  
上黨_瑕丘異 現在 30歳 代郡_丁国 邑宰
  


敵視している武将


無し



敵視されている武将


無し