145年1月 当時 18歳、隴西_秦演に士として仕える。 武力評価での昇進であったと言われる。
145年2月 この月の人事で、隴西_秦国、文官として処務にあたる任を司る。
145年6月 象郡_許如下大夫指揮の河内_李朝昌陽帝国軍に合治城を包囲される。
145年11月 導江_耿信士指揮の河内_李朝昌陽帝国軍に合治城を包囲される。
145年11月 度重なる河内_李朝昌陽帝国軍の猛攻から 合治城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
146年7月 巴西_相里武宰相指揮の河内_李朝昌陽帝国軍に合治城を包囲される。
146年7月 河内_李朝昌陽帝国軍の猛攻を防ぎきれず、合治城は落城する。
146年7月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
147年10月 隴西_樊憲の支配する賛治の地を訪れる。 酒場でのやりとりなどから隴西_樊軍の人物関係をそれとなく理解する。
147年11月 河内_閭昭の支配する宜春の地を訪れる。 この地の知者との話などから隴西_樊軍の人物関係をそれとなく理解する。
147年12月 東海_召毅の支配する江陽の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから代郡_韓軍の人物関係をそれとなく理解する。
148年1月 東陽_杜勝の支配する鉅野の地を訪れる。 住民との会話などから東陽_杜軍の人物関係をそれとなく理解する。
148年2月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、隴西_樊軍に仕官する。 彼が 22歳の時であった。
148年2月 配属先が決まり、武官として準備するよう通達される。
148年2月 汝陽の地を拠点とする、陳郡_盧侯下大夫揮下の東部方面軍に配属。
148年6月 武キ_田恕中大夫指揮のもと安豐_宋国聊城城攻略戦に参加。
148年6月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、聊城城攻略は断念。 兵を退く。
148年7月 汝陽の東部方面軍を解任、首邑に戻る。
148年9月 楡次の戦いにおいて、江夏_頓軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 江夏_頓領楡次を制圧。 功績により上士に昇進。
148年10月 隴西_樊憲公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
148年11月 隴西_樊憲公の指示によって、地元の支持を得るべく觀治の地への赴任が決まる。
148年11月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
149年3月 魏郡_羽式上大夫指揮のもと安豐_宋国聊城城攻略戦に参加。
149年3月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、聊城城攻略は断念。 兵を退く。
149年6月 国内の武キ_田恕に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
149年7月 賛同する武キ_田恕中大夫のはからいにより、 成陽の地を拠点とする武キ_田恕中大夫揮下、 南部方面軍に配属が決まる。
149年9月 第3次聊城の戦いにおいて、隴西_樊軍援軍として安豐_宋軍と対戦。 後衛を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 安豐_宋領聊城を制圧。
149年12月 乘氏の戦いにおいて、長沙_紀軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 長沙_紀領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
150年5月 始成山の戦いにおいて、隴西_樊軍援軍として安豐_宋軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。
150年6月 成陽東の攻防戦において、長沙_紀軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 23歳。
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