145年1月 当時 52歳、東郡_郭樸に士として仕える。 卿の人事であったと言われる。
145年4月 東郡_郭樸公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
145年5月 東郡_郭樸公の指示によって、地元の経済の向上を目指し沈陽の地への赴任が決まる。
146年1月 経済状況改善のまずまずの成果は上げ、沈陽の地をあとにする。
146年4月 東郡_郭樸公の指示によって、地元の支持を得るべく聞喜の地への赴任が決まる。
146年7月 国内の丹陽_兪睿に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
146年9月 才より努力を持って、住民支持向上のそれなりの成果は上げ、 聞喜の地をあとにする。
146年12月 東郡_郭樸公の指示によって、地元の支持を得るべく始成の地への赴任が決まる。
147年6月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、始成の地をあとにする。
147年8月 東郡_郭樸公の指示によって、地元の支持を得るべく始成の地への赴任が決まる。
147年10月 隴西_樊国に始成を制圧され降伏。 捕虜となるも助命され隴西_樊軍邑宰を拝命。
147年10月 參封の地に赴任。
147年10月 能力が認められ邑宰に推薦を受けるが、野心無く断る。
150年4月 公の命を受け、この地を訪れた上谷_程嘉下大夫から公への忠誠の意を確認され、 賛同する。
150年10月 能力が認められ邑宰に推薦を受けるが、野心無く断る。
152年6月 賛治の地に赴任。
152年6月 能力が認められ邑宰に推薦を受けるが、野心無く断る。
154年7月 賛治で反旗を掲げ、叛乱軍の指導者となる。
154年9月 安平_馮恢を養子に迎える。
154年10月 民を思う西河_ケ湛の志しに触れ、手を結ぶ決断をする。
154年11月 無事、領土を守り、長沙_紀泰公に合流。
154年11月 敵侵攻によって孤立した昆郷の地において、 暫定自治を始めた西河_ケ湛上大夫に従うことになる。
155年2月 九眞_滕叔国參封城攻略戦に着手。
155年6月 參封西の攻防戦において、九眞_滕叔軍と対戦。
155年8月 九眞_滕叔国參封城攻略戦に着手。
155年8月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、參封城攻略は断念。 兵を退く。
156年2月 恐怖で夢から覚めるが、内容は思い出せなかった。
156年5月 聊城東の攻防戦において、安豐_宋軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 安豐_宋領聊城を制圧。 功績により上士に昇進。
156年5月 九眞_滕叔起卿指揮のもと安豐_宋国聊城城攻略戦に参加。
156年5月 城内への強行突入に成功、聊城城を陥落させる。
156年9月 西河_ケ湛公指揮のもと廣漢_包国信成城攻略戦に参加。
156年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、信成城攻略は断念。 兵を退く。
157年3月 九眞_滕叔起卿指揮のもと齊郡_盆成国高樂城攻略戦に参加。
157年3月 城内への強行突入に成功、高樂城を陥落させる。
157年3月 合流先を失い、以後、西河_ケ湛公に従う。
157年7月 廣漢_包度公指揮の廣漢_包軍に昆郷城を包囲される。
157年10月 呉郡_叔夜峻上大夫率いる廣漢_包軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である參封城に立て籠もる。
157年10月 度重なる廣漢_包軍の猛攻から 參封城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
157年10月 參封城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
158年2月 第3次覇陵の戦いにおいて、齊郡_盆成軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 齊郡_盆成領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 功績により下大夫に昇進。
158年4月 廣漢_包逸上士率いる廣漢_包軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である參封城に立て籠もる。
158年4月 度重なる廣漢_包軍の猛攻から 參封城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
158年4月 參封城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
158年5月 參封城において病に伏せ逝去。 享年 65歳。
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