145年1月 当時 26歳、代郡_韓輔に士として仕える。 主君を慕ってであったと言われる。
145年2月 この月の人事で、代郡_韓国、文官として処務にあたる任を司る。
145年3月 扶風_王湛卿の指示によって、地元の支持を得るべく南皮の地への赴任が決まる。
145年5月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
145年6月 青蛉東の戦いにおいて、河内_李軍と対戦。 前衛を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
145年11月 西平_趙穆下大夫指揮のもと河内_李国襄安城攻略戦に参加。
145年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 襄安城攻略は断念。 兵を退く。
146年1月 城キの戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 左翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
146年5月 穀昌の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 東陽_杜領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
146年6月 第2次博郷の戦いにおいて、酒泉_ケ陵軍と対戦。 左翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
147年2月 上谷_劉咨中大夫指揮のもと東陽_杜国穀昌城攻略戦に参加。
147年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、穀昌城攻略は断念。 兵を退く。
147年6月 代郡_韓輔公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
147年7月 代郡_韓輔公の指示によって、地元の支持を得るべく櫟陽の地への赴任が決まる。
147年11月 君主代郡_韓輔の訃報を知らされ、急遽任地を後にし、 首邑に戻る。
147年11月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
148年2月 第3次穀昌の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 左翼騎を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。
148年6月 上谷_劉咨中大夫指揮のもと東陽_杜国穀昌城攻略戦に参加。
148年6月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、穀昌城攻略は断念。 兵を退く。
148年10月 馮翊_陸国武城城攻略戦に着手。
148年10月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 武城城攻略は断念。 兵を退く。
149年3月 東陽_杜鮑卿率いる東陽_杜軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である高柴城に立て籠もる。
149年3月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 高柴城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
149年3月 高柴城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
149年7月 第2次襄非の戦いにおいて、鴈門_叔孫軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 鴈門_叔孫領襄非を制圧。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 31歳。
|