150年3月 鬱林_雍門嵩の嫡子として元服し鬱林_雍門軍卿を拝命。
150年4月 櫟陽の地を拠点とする南西部方面軍の総司令官に任命される。
150年6月 第2次武城の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。
150年9月 鴈門_叔孫俊宰相指揮のもと東陽_杜国武城城攻略戦に参加。
150年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、武城城攻略は断念。 兵を退く。
150年11月 国内の酒泉_趙量に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
151年3月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
151年3月 櫟陽の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 左翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
151年6月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
151年6月 第2次櫟陽の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 左翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
151年9月 汲郡_不弟宇宰相率いる東陽_杜軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である櫟陽城に立て籠もる。
151年9月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 櫟陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
151年12月 汲郡_不弟宇宰相率いる東陽_杜軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である昌陽城に立て籠もる。
151年12月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 昌陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
151年12月 昌陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
152年1月 昌陽の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
152年3月 第3次櫟陽の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 前衛を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
152年6月 第4次櫟陽の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 櫟陽地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
152年8月 青蛉の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 右翼を担い、いくつかの敵部隊を粉砕し奮戦するが、敗戦。 青蛉地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
152年8月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
152年8月 昌陽の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
152年9月 水章の戦いにおいて、安平_張軍と対戦。 陣頭に立つ、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
152年9月 敵侵攻によって孤立した昌陽の地で暫定自治を始める。
153年3月 地方叛乱軍指導者であった瑯邪_陳隱が同志となり戦力が増す。
153年3月 配下の瑯邪_陳隱の忠誠を得る。
153年4月 昌陽森の戦いにおいて、安平_張軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
153年4月 呉郡_將梁展卿指揮の安平_張軍に昌陽城を包囲される。
153年4月 安平_張軍の猛攻を防ぎきれず、昌陽城は落城する。
153年4月 安平_張国に拠点昌陽を制圧され、自らの命を絶った。 享年 19歳。
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