150年11月 代郡_韓休の養子に迎えられ代郡_韓軍上士を拝命。
150年11月 国内の楚郡_黄晏に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
150年12月 代郡_韓休公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
150年12月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
151年2月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
151年2月 南皮の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく東陽_杜軍と対戦。 父に随軍する形で参謀として全軍を指揮する、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
151年4月 合肥の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 父に随軍する形で左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。
151年4月 汲郡_不弟宇宰相指揮の東陽_杜軍に合肥城を包囲される。
151年4月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 合肥城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
151年10月 馮翊_陸徽上大夫指揮の東陽_杜軍に合肥城を包囲される。
151年10月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 合肥城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
152年3月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
152年3月 高成の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
152年3月 第2次南皮の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
152年4月 宣城_扶袤宰相指揮の東陽_杜軍に合肥城を包囲される。
152年4月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 合肥城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
152年7月 第2次高成の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
153年2月 宣城_扶袤宰相率いる東陽_杜軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である南皮城に立て籠もる。
153年2月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 南皮城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
153年2月 南皮城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
153年7月 高成東の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく東陽_杜軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
153年8月 宣城_扶袤宰相率いる東陽_杜軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である南皮城に立て籠もる。
153年8月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 南皮城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
153年8月 南皮城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
153年12月 東陽_杜国安悳城攻略戦に着手。
154年1月 自国、首邑包囲の危機により安悳城攻略は断念、 早急に撤退を開始する。
154年1月 合肥山の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく東陽_杜軍と対戦。 父に随軍する形で右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
154年2月 壽光東の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく長沙_紀軍と対戦。
154年5月 東陽_杜国吾豐城攻略戦に着手。
154年5月 城内への強行突入に成功、吾豐城を陥落させる。
154年10月 安悳山の攻防戦において、東陽_杜軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
154年10月 東陽_杜国高柴城攻略戦に着手。
155年4月 秦郡_張艾士率いる中山_學軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である達昌城に立て籠もる。
155年4月 度重なる中山_學軍の猛攻から 達昌城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
155年4月 達昌城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
155年4月 国内の濟陰_高に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
155年5月 国内の廬江_孟竝に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
155年8月 成固南の攻防戦において、蜀郡_餘丘軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。
155年8月 代郡_韓国成固城攻略戦に着手。
155年10月 代郡_丁楷公率いる代郡_丁軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である山キ城に立て籠もる。
155年11月 山キ城は包囲戦の末、陥落。
155年11月 代郡_丁国に拠点山キを制圧され、自らの命を絶った。 享年 31歳。
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