145年1月 当時 38歳、代郡_韓輔に邑宰として仕える。 出世に無欲であったと言われる。
145年7月 能力が認められ邑宰に推薦を受けるが、野心無く断る。
147年8月 東陽_杜勝公指揮の東陽_杜軍に城キ城を包囲される。
147年8月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 城キ城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
147年10月 城キの地に赴任。
149年2月 高柴の地に赴任。
149年3月 東陽_杜鮑卿指揮の東陽_杜軍に高柴城を包囲される。
149年3月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 高柴城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
150年10月 宣城_扶袤下大夫指揮の東陽_杜軍に合肥城を包囲される。
150年10月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 合肥城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
151年4月 汲郡_不弟宇宰相指揮の東陽_杜軍に合肥城を包囲される。
151年4月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 合肥城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
151年10月 馮翊_陸徽上大夫指揮の東陽_杜軍に合肥城を包囲される。
151年10月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 合肥城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
152年4月 宣城_扶袤宰相指揮の東陽_杜軍に合肥城を包囲される。
152年4月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 合肥城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
153年3月 東陽_杜鮑卿指揮の東陽_杜軍に合肥城を包囲される。
153年3月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 合肥城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
153年9月 南陽_呂翰士指揮の東陽_杜軍に合肥城を包囲される。
155年3月 達昌の地に赴任。
155年3月 能力が認められ士に推薦を受ける。 以後、首邑勤務となる。
155年4月 南皮の地を拠点とする、代郡_韓周上士揮下の南西部方面軍に配属。
155年5月 国内の代郡_韓周に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
155年7月 鉅野の戦いにおいて、九原_石軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 侵攻作戦は成功。
155年7月 九原_石国鉅野城攻略戦に着手。
155年8月 鉅野城を包囲戦の末、陥落させる。
155年10月 臨平の戦いにおいて、代郡_丁軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。
156年2月 東陽_杜勝上大夫指揮のもと廣陵_荀国青蛉城攻略戦に参加。
156年3月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、青蛉城攻略は断念。
156年6月 東陽_杜勝上大夫指揮のもと東郡_山国吾豐城攻略戦に参加。
156年6月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、吾豐城攻略は断念。
156年9月 東陽_杜勝上大夫指揮のもと趙郡_宰父国高陽城攻略戦に参加。
156年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、高陽城攻略は断念。 兵を退く。
156年12月 吾豐山の攻防戦において、東郡_山軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 東郡_山領吾豐を制圧。 功績により下大夫に昇進。
157年1月 代郡_韓国宰相の任に抜擢される。
157年1月 裏でかなり強引な人事工作を行っていたのが功を奏する。 同時に方面軍総司令官の任を解かれ、首邑に戻る。
157年3月 東郡_巫国吾豐城攻略戦に着手。
157年3月 吾豐城を包囲戦の末、陥落させる。
157年7月 濮陽_邯鄲国黽平城攻略戦に着手。
157年11月 黽平の戦いにおいて、濮陽_邯鄲軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 濮陽_邯鄲領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
157年12月 高陽川の戦いにおいて、趙郡_宰父軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
157年12月 趙郡_宰父国高陽城攻略戦に着手。
157年12月 城内への強行突入に成功、高陽城を陥落させる。
158年2月 国内の齊郡_赤建に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
158年5月 雲南_子枋存士率いる代郡_丁軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である陰平城に立て籠もる。
158年5月 度重なる代郡_丁軍の猛攻から 陰平城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
158年5月 陰平城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
158年6月 陰平の地を拠点とする方面軍は新たに東陽_杜勝卿が司令官に。
158年6月 陰平の東部方面軍を解任、首邑に戻る。
158年8月 廣陵_荀甫公率いる廣陵_荀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である襄非城に立て籠もる。
158年9月 襄非の地を拠点とする方面軍は新たに東陽_杜勝卿が司令官に。
158年9月 敵侵攻によって孤立した襄非の地において、 暫定自治を始めた東陽_杜勝卿に従うことになる。
158年12月 第3次襄非の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく廣陵_荀軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
159年1月 合流先を失い、以後、東陽_杜勝公に従う。
159年2月 青蛉東の戦いにおいて、廣陵_荀軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 廣陵_荀領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
159年5月 廣陵_荀隱卿指揮の廣陵_荀軍に襄非城を包囲される。
159年5月 度重なる廣陵_荀軍の猛攻から 襄非城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
159年11月 廣陵_荀奉中大夫指揮の廣陵_荀軍に襄非城を包囲される。
159年11月 度重なる廣陵_荀軍の猛攻から 襄非城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
160年5月 廣陵_荀奉中大夫指揮の廣陵_荀軍に襄非城を包囲される。
160年5月 度重なる廣陵_荀軍の猛攻から 襄非城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
160年11月 廣陵_荀奉中大夫指揮の廣陵_荀軍に襄非城を包囲される。
160年11月 度重なる廣陵_荀軍の猛攻から 襄非城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
162年3月 呉興_蒋国昌陽城攻略戦に着手。
162年7月 第2次昌陽の戦いにおいて、呉興_蒋軍と対戦。
162年8月 呉興_蒋国昌陽城攻略戦に着手。
162年12月 第3次昌陽の戦いにおいて、呉興_蒋軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
162年12月 呉興_蒋国昌陽城攻略戦に着手。
163年2月 陣中で無念の病死。 享年 56歳。
|