経歴
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157年1月 当時 36歳、居巣_突に邑宰として仕える。 適材適所の配属であったと言われる。
157年12月 曹の地に赴任。
158年1月 曹の地を拠点とする方面軍は新たに暴隧_爲綰上士が司令官に。
167年10月 広武_騎兌公指揮の広武_騎軍に曹城を包囲される。
167年10月 広武_騎軍は自軍の側背を考慮し撤退、曹城は安泰を得る。
169年1月 白圭宰相指揮の広武_騎軍に曹城を包囲される。
169年5月 駆けつけた援軍部隊が勝利し、広武_騎軍は撤退。
169年6月 甲氏_公孫泰卿指揮の広武_騎軍に曹城を包囲される。
169年6月 広武_騎軍は自軍の側背を考慮し撤退、曹城は安泰を得る。
169年11月 敵侵攻によって孤立した曹の地において、 暫定自治を始めた黄_王子鑒卿に従うことになる。
169年12月 同じ暫定自治を行っていた、秦周_燕濤公に合流する。
170年10月 敵侵攻によって孤立した曹の地において、 暫定自治を始めた黄_王子鑒卿に従うことになる。
171年2月 広武_騎性中大夫指揮の広武_騎軍に曹城を包囲される。
171年5月 広武_騎軍は自軍の側背を考慮し撤退、曹城は安泰を得る。
172年5月 甲氏_公孫泰卿指揮の広武_騎軍に曹城を包囲される。
172年5月 広武_騎軍は自軍の側背を考慮し撤退、曹城は安泰を得る。
174年1月 槐里_狐容卿指揮の広武_騎軍に曹城を包囲される。
174年1月 広武_騎軍の猛攻を防ぎきれず、曹城は落城する。
174年1月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
176年7月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、桐丘_牛軍に仕官する。 彼が 56歳の時であった。
176年12月 随北の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 前衛を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
177年3月 国内の穀丘_崔申と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
177年4月 賛同する穀丘_崔申士のはからいにより、 方城の地を拠点とする新鄭_華侯上大夫揮下、 北東部方面軍に配属が決まる。
177年5月 郢北の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 左翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
177年6月 郢の地を拠点とする方面軍に配属が決まる。
177年12月 唐西の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
178年1月 郢の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
178年4月 西陵川の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 桐丘_牛領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
179年6月 長沙川の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、敗戦。 桐丘_牛領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
179年12月 陳平原の戦いにおいて、秦周_燕軍と対戦。 左翼を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 秦周_燕領陳を制圧。
179年12月 槐里_狐容卿指揮のもと秦周_燕国陳城攻略戦に参加。
180年2月 予章北の戦いにおいて、桐丘_牛軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 桐丘_牛領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
180年7月 広武_騎慮中大夫指揮のもと淮_爲国朝歌城攻略戦に参加。
180年7月 留守の城を懸念し長期戦は避け、朝歌城攻略は断念。 兵を退く。
180年12月 杞川の攻防戦において、畢軍と対戦。 左翼を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。 畢領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
181年6月 朝歌森の攻防戦において、秦周_燕軍と対戦。 右翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 秦周_燕領朝歌を制圧。
181年12月 曹平原の戦いにおいて、大陵_李軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。
182年9月 建為西の攻防戦において、広武_騎軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
183年1月 予章川の戦いにおいて、桐丘_牛軍と対戦。 左翼を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。 桐丘_牛領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
183年6月 六北の戦いにおいて、督陽_子師軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 督陽_子師領六を制圧。
183年6月 広武_騎嬰卿指揮のもと督陽_子師国六城攻略戦に参加。
184年8月 予章北の戦いにおいて、桐丘_牛軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、 敗戦。 桐丘_牛領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
185年6月 寿春川の攻防戦において、京茲_婁軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 京茲_婁領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
186年2月 沮陽_王時卿指揮のもと督陽_子師国六城攻略戦に参加。
186年2月 留守の城を懸念し長期戦は避け、六城攻略は断念。 兵を退く。
186年7月 広武_騎同公指揮のもと新鄭_華国夷陵城攻略戦に参加。
186年7月 留守の城を懸念し長期戦は避け、夷陵城攻略は断念。 兵を退く。
186年12月 方城東の攻防戦において、新鄭_華軍と対戦。 前衛を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 新鄭_華領方城を制圧。
186年12月 高梁_后捐卿指揮のもと新鄭_華国方城攻略戦に参加。
186年12月 留守の城を懸念し長期戦は避け、方城攻略は断念。 兵を退く。
187年7月 番陽北の攻防戦において、督陽_子師軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 督陽_子師領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 66歳。
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