経歴
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241年10月 地元の推薦もあり、晋陽の地で広武_騎国、 邑宰に 36歳で就任。
243年11月 この地を訪れた曲梁_霊韶士から防門_貢遵卿への賛同を呼びかけられ、 会談後、了承する。
252年6月 この地を訪れた沮陽_王奐上大夫から営丘_后毅宰相への賛同を呼びかけられ、 会談後、了承する。
256年5月 能力が認められ士に推薦を受ける。 以後、首邑勤務となる。
256年6月 邯鄲の地を拠点とする、沮陽_王奐卿揮下の北西部方面軍に配属。
256年10月 翼南の攻防戦において、新鄭_華軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。 最後尾で殿を努める。
256年12月 敵侵攻によって孤立した邯鄲の地において、 暫定自治を始めた沮陽_王奐卿に従うことになる。
257年6月 南皮南の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により上士に昇進。
258年5月 蒲南の攻防戦において、新鄭_華軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 蒲地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
258年7月 新鄭_華重耳上大夫指揮の新鄭_華軍に高唐城を包囲される。
258年10月 霍西の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
258年11月 新鄭_華側卿指揮の新鄭_華軍に高唐城を包囲される。
259年3月 新鄭_華国に拠点高唐を制圧されるが、 からくも脱出に成功。 再起にかける。
259年3月 第2次高唐の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 右翼を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
259年4月 晋陽西の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 陣頭に立つ、まんまと敵の挑発にのり部隊は混乱、敗戦。 晋陽地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
259年5月 長子の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 右翼騎を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
259年6月 息子の楚丘_佚渇が元服し沮陽_王軍士を拝命。
260年6月 第2次長子の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
260年10月 第2次鉅鹿の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。
260年12月 邯鄲南の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、 敗戦。
260年12月 新鄭_華コ卿指揮の新鄭_華軍に邯鄲城を包囲される。
260年12月 新鄭_華軍は自軍の側背を考慮し撤退、邯鄲城は安泰を得る。
261年9月 邯鄲南の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。
261年9月 新鄭_華疑卿指揮の新鄭_華軍に邯鄲城を包囲される。
261年9月 邯鄲城は包囲戦の末、陥落。
261年9月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
263年5月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、新鄭_華軍に仕官する。 彼が 59歳の時であった。
263年5月 晋陽の地を拠点とする、新鄭_華宜卿揮下の北西部方面軍に配属。
264年3月 晋陽の地を拠点とする方面軍は新たに厥貉_王官綜上士が司令官に。
265年8月 国内の侯麗_裨宛と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
269年11月 君主側近の者への賄賂等、出世工作が実り上士に昇進。
270年3月 太原城において病に伏せ逝去。 享年 65歳。
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