100年1月 当時 23歳、巴郡_忌攸に下大夫として仕える。 奸臣であったと言われる。
100年3月 東來の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 左翼を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 新城_公子領東來を制圧。
100年6月 第2次東來の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 東來地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
100年8月 昌国の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 左翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
100年11月 第2次昌国の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 後衛を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により中大夫に昇進。
101年3月 第3次昌国の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 右翼騎を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。
101年4月 君主死亡によって野に下る。 そのころ、大規模に将兵の徴募を募っていた漢中_棘穰に仕官する。 士を拝命。
105年9月 君主漢中_輔基死亡。 特に協力者もいなかったため、悩んだ末、汝南_張盤に従うことを決める。
105年12月 虞城の地に赴任。
106年2月 武キ_懸潘胤公率いる武キ_懸潘軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である陝城に立て籠もる。
106年2月 度重なる武キ_懸潘軍の猛攻から 陝城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年2月 陝城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
106年6月 鉅野_魯樹中大夫率いる武キ_懸潘軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である韓原城に立て籠もる。
106年10月 駆けつけた援軍部隊が勝利し、武キ_懸潘軍は撤退。
106年10月 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
106年11月 武キ_懸潘国臨晋城攻略戦に着手。
106年12月 東平_張統上大夫率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である成皋城に立て籠もる。
106年12月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 成皋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年12月 成皋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
107年1月 陽擢の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 右翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により上士に昇進。
107年2月 成皋の東部方面軍を解任、首邑に戻る。
107年2月 淮陽_陰參卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である陽擢城に立て籠もる。
107年2月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 陽擢城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
107年2月 陽擢城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
107年3月 第2次洛陽の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 右翼騎を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 捕虜になるを良しとせず自害。 享年 30歳。
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