100年7月 地元の推薦もあり、薊の地で南郡_將軍国、 邑宰に 51歳で就任。
100年7月 公の命を受け、この地を訪れた廣陵_張咸卿から公への忠誠の意を確認され、 賛同する。
100年10月 新城_公子国、新城_公子貔公の意思に賛同することを決意。
100年10月 薊で反旗を掲げ、叛乱軍の指導者となる。
100年10月 新城_公子軍の後ろ盾を得る。
100年12月 漢中_棘牧を養子に迎える。
101年1月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
101年1月 薊西の攻防戦において、南郡_將軍軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
101年4月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
101年4月 第2次薊の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
102年2月 博陵_郭雅卿率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である督亢城に立て籠もる。
102年2月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 督亢城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年2月 督亢城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
102年3月 敵侵攻によって孤立した督亢の地で暫定自治を始める。
102年4月 同じ暫定自治を行っていた、象郡_賀沛公に合流する。
102年7月 第2次武城の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。
102年9月 南郡_將軍国代城攻略戦に着手。
102年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、代城攻略は断念。 兵を退く。
103年1月 第2次高唐の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 侵攻作戦は成功。 新城_公子領高唐を制圧。
103年6月 廣陵_張咸卿率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である鉅鹿城に立て籠もる。
103年6月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
103年10月 新城_公子貔公率いる新城_公子軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である高唐城に立て籠もる。
103年10月 度重なる新城_公子軍の猛攻から 高唐城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
103年10月 高唐城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
104年4月 邯鄲の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。
104年9月 彭城_左史玄卿指揮のもと南郡_將軍国代城攻略戦に参加。
104年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、代城攻略は断念。 兵を退く。
105年3月 第3次臨鯔の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 新城_公子領臨鯔を制圧。 功績により卿に昇進。
105年3月 臨海_馬寓卿指揮のもと新城_公子国臨鯔城攻略戦に参加。
105年3月 城内への強行突入に成功、臨鯔城を陥落させる。
105年4月 高唐の南部方面軍を解任、首邑に戻る。
105年7月 君主象郡_賀特死亡。 特に協力者もいなかったため、悩んだ末、代郡_慶忌彝に従うことを決める。
108年5月 淮陽_陰參卿指揮の河上_廖軍に黄城を包囲される。
108年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 黄城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年11月 上谷_滕晞卿指揮の河上_廖軍に黄城を包囲される。
108年11月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 黄城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年2月 新野_堪囘卿指揮の河上_廖軍に黄城を包囲される。
109年6月 東來東の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
110年1月 中山_學舎卿指揮の河上_廖軍に黄城を包囲される。
110年1月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 黄城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
110年7月 隴西_季老混宰相指揮の河上_廖軍に黄城を包囲される。
110年11月 東來平原の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
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