100年1月 当時 23歳、漢中_輔基に邑宰として仕える。 能力アピールでの昇進であったと言われる。
105年9月 君主死亡。 特に従う人物も無く、放浪を始める。
107年6月 武キ_懸潘胤の支配する臨晋の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから汝南_鄭軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年7月 河上_廖艷の支配する西陵の地を訪れる。 この地の知者との話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年8月 臨海_馬寓の支配する鉅鹿の地を訪れる。 酒場でのやりとりなどから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年9月 河上_廖艷の支配する広漢の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年10月 河上_廖艷の支配する寿春の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年11月 河上_廖艷の支配する少梁の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年12月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、河上_廖軍に仕官する。 彼が 31歳の時であった。
107年12月 北地の地を拠点とする、中山_學舎卿揮下の北部方面軍に配属。
108年2月 上谷_滕晞卿指揮のもと武キ_懸潘国函谷関城攻略戦に参加。
108年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、函谷関城攻略は断念。 兵を退く。
108年10月 息子の珠崖_棘厚が元服し河上_廖軍士を拝命。
108年11月 勃海_左乂士指揮のもと廣陵_張国絳城攻略戦に参加。
108年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 絳城攻略は断念。 兵を退く。
109年11月 国内の珠崖_魏雅に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
110年11月 息子の珠崖_棘譚が元服し河上_廖軍士を拝命。
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