106年5月 地元の推薦もあり、寿春の地で河上_廖国、 邑宰に 49歳で就任。
106年10月 寿春で反旗を掲げ、叛乱軍の指導者となる。
106年10月 廣川_張招を養子に迎える。
107年2月 軽い病にかかるが、数日で回復する。
107年2月 河上_廖国に降伏、旧領は没収されたが、下大夫の地位を拝命。
107年3月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
107年5月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく随の地への赴任が決まる。
107年9月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
107年9月 国内の汝南_郭遐に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
107年12月 北地の地を拠点とする、中山_學舎卿揮下の北部方面軍に配属。
108年2月 淮陽_陰參卿指揮のもと武キ_懸潘国臨晋城攻略戦に参加。
108年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、臨晋城攻略は断念。 兵を退く。
108年4月 国内の永昌_王恪に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
108年10月 国内の豫章_陳桑に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
108年11月 淮陽_陰參卿指揮のもと臨海_馬国鉅鹿城攻略戦に参加。
108年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 鉅鹿城攻略は断念。 兵を退く。
109年1月 国内の遼西_屠岸扶に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
109年4月 国内の東郡_尹粛と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
109年11月 新野_堪囘卿指揮のもと臨海_馬国鉅鹿城攻略戦に参加。
109年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 鉅鹿城攻略は断念。 兵を退く。
110年9月 河上_廖艷公指揮のもと廣陵_張国蒲陽城攻略戦に参加。
111年1月 廣陵_張混卿率いる廣陵_張軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である陽擢城に立て籠もる。
111年1月 度重なる廣陵_張軍の猛攻から 陽擢城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
111年1月 陽擢城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
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