100年1月 当時 37歳、清河_張支に邑宰として仕える。 適材適所の配属であったと言われる。
103年4月 風洪上士指揮の河上_廖軍に州城を包囲される。
103年5月 君主死亡によって野に下る。 そのころ、大規模に将兵の徴募を募っていた呉郡_董輔に仕官する。 士を拝命。
103年6月 この月の人事で、呉郡_董国、文官として処務にあたる任を司る。
104年4月 琅邪の北東部方面軍補佐の任を解任、首邑に戻る。
105年5月 国内の蒼梧_毒綸と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
106年6月 東平_張統上大夫指揮の南郡_將軍軍に上党城を包囲される。
106年6月 南郡_將軍軍の猛攻を防ぎきれず、上党城は落城する。
106年6月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
107年4月 河上_廖艷の支配する上庸の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年5月 河上_廖艷の支配する藍田の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから陳留_盂軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年6月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、河上_廖軍に仕官する。 彼が 44歳の時であった。
107年6月 配属先が決まり、武官として準備するよう通達される。
107年6月 剣閣の地を拠点とする、東郡_尹粛上士揮下の西部方面軍に配属。
107年12月 第3次平陽の戦いにおいて、河上_廖軍援軍として南郡_將軍軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
108年2月 上谷_滕晞卿指揮のもと武キ_懸潘国函谷関城攻略戦に参加。
108年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、函谷関城攻略は断念。 兵を退く。
108年2月 国内の上谷_滕容に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
108年11月 廣陵_張国絳城攻略戦に着手。
108年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 絳城攻略は断念。 兵を退く。
111年2月 配属されていた剣閣の地の方面軍解散が決定。 首邑に戻る。
111年2月 北地の地を拠点とする、上谷_滕容上士揮下の北部方面軍に配属。
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