107年7月 上谷_滕晞の養子に迎えられ河上_廖軍上士を拝命。
107年9月 北地の地を拠点とする、中山_學舎卿揮下の北部方面軍に配属。
107年11月 濮陽の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 左翼を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
108年1月 第4次邯鄲の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 南郡_將軍領邯鄲を制圧。
108年1月 隴西_季老混宰相指揮のもと南郡_將軍国邯鄲城攻略戦に参加。
108年1月 邯鄲城を包囲戦の末、陥落させる。
108年2月 国内の勃海_左乂に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
108年8月 国内の敦煌_劉石に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
108年11月 淮陽_陰參卿指揮のもと臨海_馬国鉅鹿城攻略戦に参加。
108年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 鉅鹿城攻略は断念。 兵を退く。
109年3月 国内の隴西_季老混に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
109年5月 河上_廖延卿指揮のもと廣陵_張国絳城攻略戦に参加。
109年5月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、絳城攻略は断念。 兵を退く。
109年11月 河上_廖延卿指揮のもと廣陵_張国絳城攻略戦に参加。
109年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 絳城攻略は断念。 兵を退く。
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