100年1月 当時 23歳、漢中_輔基に邑宰として仕える。 主君の友人であったと言われる。
101年6月 成皋の地に赴任。
105年9月 君主漢中_輔基死亡。 特に協力者もいなかったため、悩んだ末、汝南_張盤に従うことを決める。
106年9月 隴西_季老混宰相指揮の河上_廖軍に洛陽城を包囲される。
106年9月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 洛陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
107年3月 隴西_季老混宰相指揮の河上_廖軍に洛陽城を包囲される。
107年3月 河上_廖軍の猛攻を防ぎきれず、洛陽城は落城する。
107年3月 君主汝南_張盤死亡。 仕える国を無くし放浪する。
109年8月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、河上_廖軍に仕官する。 彼が 32歳の時であった。
109年8月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
109年8月 国内の泰山_張紀に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
109年9月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく高陽の地への赴任が決まる。
110年4月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、高陽の地をあとにする。
110年5月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
110年6月 息子の北海_翰亭が元服し河上_廖軍士を拝命。
110年12月 朝歌の地を拠点とする、桂陽_柏成繍中大夫揮下の北東部方面軍に配属。
110年12月 第4次平陽の戦いにおいて、廣陵_張軍と対戦。 左翼を担い、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 34歳。
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