104年2月 地元の推薦もあり、藍田の地で河上_廖国、 邑宰に 36歳で就任。
104年8月 一人の時間、ふと自分の人生を振り返ってみる。
104年12月 藍田で反旗を掲げ、叛乱軍の指導者となる。
105年3月 中山_學舎中大夫指揮の河上_廖軍に藍田城を包囲される。
105年3月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 藍田城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年9月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
105年9月 藍田西の攻防戦において、河上_廖軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
105年12月 扶風_何W士指揮の河上_廖軍に藍田城を包囲される。
105年12月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 藍田城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年7月 日南_王咨士指揮の河上_廖軍に藍田城を包囲される。
106年7月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 藍田城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年9月 息子の東郡_尹熙が元服し東郡_尹軍卿を拝命。
106年12月 民を思う中山_學舎の志しに触れ、手を結ぶ決断をする。
106年12月 公中山_學舎に今後の忠誠を誓う。
107年2月 剣閣の地を拠点とする南西部方面軍の総司令官に任命される。
107年3月 無事、領土を守り、河上_廖艷公に合流。
107年4月 黔中東の戦いにおいて、河間_毋車軍と対戦。 左翼騎を担い突撃により、敵将河間_毋車昌公を討ち取るなど、 活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 河間_毋車領黔中を制圧。 功績により上士に昇進。
107年4月 中山_學舎卿指揮のもと河間_毋車国黔中城攻略戦に参加。
107年4月 黔中城を強襲、陥落させる。
107年9月 中山_學舎卿指揮のもと南郡_將軍国曲沃城攻略戦に参加。
107年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、曲沃城攻略は断念。 兵を退く。
107年12月 第2次絳の戦いにおいて、河上_廖軍援軍として南郡_將軍軍と対戦。 後衛を担い、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 侵攻作戦は成功。 南郡_將軍領絳を制圧。 功績により下大夫に昇進。
108年3月 中山_學舎卿指揮のもと廣陵_張国曲沃城攻略戦に参加。
108年3月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、曲沃城攻略は断念。 兵を退く。
108年3月 国内の東安_雙眞に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
109年4月 国内の廣川_張考と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
109年10月 国内の豫章_李敞に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
109年11月 廣平_梁伶卿指揮のもと廣陵_張国韓原城攻略戦に参加。
109年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 韓原城攻略は断念。 兵を退く。
110年5月 国内の趙郡_焦洪に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
111年1月 廣陵_張林中大夫率いる廣陵_張軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である宛城に立て籠もる。
111年2月 度重なる廣陵_張軍の猛攻から 宛城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
111年2月 宛城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
|