100年1月 当時 17歳、清河_張支に邑宰として仕える。 出世に無欲であったと言われる。
103年4月 風洪上士指揮の河上_廖軍に州城を包囲される。
103年5月 君主死亡によって野に下る。 そのころ、大規模に将兵の徴募を募っていた呉郡_董輔に仕官する。 士を拝命。
104年4月 第3次聊城の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 右翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 新城_公子領聊城を制圧。
104年4月 邯鄲の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
105年5月 第2次邯鄲の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 左翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
105年5月 国内の勃海_左乂と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
105年6月 第4次聊城の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 右翼騎を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。 聊城地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
106年6月 第3次上党の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、敗戦。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
106年6月 東平_張統上大夫指揮の南郡_將軍軍に上党城を包囲される。
106年6月 南郡_將軍軍の猛攻を防ぎきれず、上党城は落城する。
106年6月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
108年3月 鬱林_劉禮の支配する即墨の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年4月 河上_廖艷の支配する新鄭の地を訪れる。 病で世話になった医者との話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年5月 河上_廖艷の支配する北地の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年6月 河上_廖艷の支配する予章の地を訪れる。 住民との会話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年7月 河上_廖艷の支配する寿春の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年8月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、河上_廖軍に仕官する。 彼が 25歳の時であった。
108年10月 雲中の地を拠点とする、南郡_將軍翹上大夫揮下の北部方面軍に配属。
109年1月 河上_廖延卿指揮のもと廣陵_張国蒲陽城攻略戦に参加。
109年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、蒲陽城攻略は断念。 兵を退く。
109年4月 国内の風洪に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
109年7月 蒲陽平原の攻防戦において、廣陵_張軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 廣陵_張領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
110年4月 廣平_梁伶卿指揮のもと廣陵_張国蒲陽城攻略戦に参加。
110年8月 第2次蒲陽の戦いにおいて、廣陵_張軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 廣陵_張領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 28歳。
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