100年1月 当時 44歳、呉郡_董竒に下大夫として仕える。 武力評価での昇進であったと言われる。
100年3月 晋陽の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 左翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
100年3月 平原_粟榮卿率いる漢中_輔軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である成皋城に立て籠もる。
100年3月 漢中_輔軍の猛攻を防ぎきれず、成皋城は落城する。
100年3月 漢中_輔国に拠点成皋を制圧され降伏。 捕虜となるも助命され漢中_輔軍上士を拝命。
100年4月 上党の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、勝利。 侵攻作戦は成功。 呉郡_董領上党を制圧。 功績により下大夫に昇進。
100年4月 南康_盧深下大夫指揮のもと呉郡_董国上党城攻略戦に参加。
100年4月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、上党城攻略は断念。 兵を退く。
100年6月 国内の臨海_馬寓と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
100年9月 第2次晋陽の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
101年1月 函谷関の戦いにおいて、廬江_甫爽軍と対戦。 左翼騎を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。
101年4月 汝南_鄭援上大夫指揮のもと南郡_將軍国督亢城攻略戦に参加。
101年4月 城内への強行突入に成功、督亢城を陥落させる。
101年9月 漢中_輔基公指揮のもと南郡_將軍国襄国城攻略戦に参加。
101年11月 廬江_甫爽頌下大夫率いる廬江_甫爽軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である陝城に立て籠もる。
101年11月 度重なる廬江_甫爽軍の猛攻から 陝城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年2月 博陵_郭雅卿率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である督亢城に立て籠もる。
102年2月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 督亢城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年2月 督亢城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
102年3月 敵侵攻によって孤立した督亢の地において、 暫定自治を始めた漢中_棘穰上大夫に従うことになる。
102年3月 漢中_棘穰公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
102年4月 同じ暫定自治を行っていた、象郡_賀沛公に合流する。
102年4月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
102年5月 象郡_賀沛公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
102年9月 象郡_賀沛公の指示によって、地元の支持を得るべく東垣の地への赴任が決まる。
102年9月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
103年1月 南皮の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 前衛を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 新城_公子領南皮を制圧。
103年4月 象郡_賀沛公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
103年5月 象郡_賀沛公の指示によって、地元の支持を得るべく東垣の地への赴任が決まる。
103年7月 南郡_將軍翹公率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である東垣城に立て籠もる。
103年7月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 東垣城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
103年7月 東垣城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
104年9月 彭城_左史玄卿指揮のもと南郡_將軍国代城攻略戦に参加。
104年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、代城攻略は断念。
105年3月 彭城_左史玄卿指揮のもと南郡_將軍国襄国城攻略戦に参加。
105年3月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、襄国城攻略は断念。 兵を退く。
105年7月 第2次楼煩の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
105年7月 君主象郡_賀特死亡。 任地であった即墨の地で旗揚げをする。
108年5月 新野_堪囘卿指揮の河上_廖軍に即墨城を包囲される。
108年9月 即墨平原の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
108年9月 新野_堪囘卿指揮の河上_廖軍に即墨城を包囲される。
108年11月 即墨城は包囲戦の末、陥落。
108年11月 河上_廖国に拠点即墨を制圧され降伏。 捕虜となり処刑。 享年 53歳。
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