100年1月 当時 35歳、清河_張支に上士として仕える。 主君の友人であったと言われる。
100年2月 清河_張支公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年3月 清河_張支公の指示によって、地元の支持を得るべく六の地への赴任が決まる。
100年10月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、六の地をあとにする。
100年12月 清河_張支公の指示によって、地元の支持を得るべくケの地への赴任が決まる。
101年7月 大事を責め小事にはこだわらず、まずまずの成果は上げ、 ケの地をあとにする。
102年4月 清河_張支公の指示によって、地元の支持を得るべく黔中の地への赴任が決まる。
102年10月 大事を責め小事にはこだわらず、まずまずの成果は上げ、 黔中の地をあとにする。
102年11月 息子の遼西_屠岸扶が元服し清河_張軍士を拝命。
106年12月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、南郡_將軍軍に仕官する。 彼が 41歳の時であった。
107年3月 上谷_滕晞卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である曲沃城に立て籠もる。
107年3月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
107年6月 隴西_季老混宰相率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である邯鄲城に立て籠もる。
107年10月 駆けつけた援軍部隊が勝利し、河上_廖軍は撤退。
107年10月 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
107年12月 第3次平陽の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により上士に昇進。
107年12月 第4次上党の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 前衛を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 43歳。
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