100年1月 当時 51歳、清河_張支に上士として仕える。 奸臣であったと言われる。
100年2月 清河_張支公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年3月 清河_張支公の指示によって、地元の支持を得るべく郢の地への赴任が決まる。
100年10月 住民支持向上の一定の成果は上げ郢の地をあとにする。
100年12月 清河_張支公の指示によって、地元の支持を得るべく予章の地への赴任が決まる。
101年7月 住民支持向上の一定の成果は上げ予章の地をあとにする。
101年11月 清河_張支公の指示によって、地元の支持を得るべく郢の地への赴任が決まる。
102年4月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、郢の地をあとにする。
102年6月 晋陽の南部方面軍補佐の任を解任、首邑に戻る。
102年10月 清河_張支公の指示によって、地元の支持を得るべく予章の地への赴任が決まる。
103年3月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、予章の地をあとにする。
106年11月 泰山_張紀の支配する高奴の地を訪れる。 城に仕えるもののこぼれ話などから彭城_左史軍の人物関係をそれとなく理解する。
106年12月 南郡_將軍翹の支配する代の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから南郡_將軍軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年1月 代郡_慶忌彝の支配する東來の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから代郡_慶忌軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年2月 中山_學舎の支配する南鄭の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから汝南_張軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年3月 南郡_將軍翹の支配する曲沃の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年4月 南郡_將軍翹の支配する絳の地を訪れる。 たまたま意気投合した人物との話から河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年5月 陳留_盂祕の支配する淮陰の地を訪れる。 たまたま意気投合した人物との話から河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年6月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、南郡_將軍軍に仕官する。 彼が 59歳の時であった。
107年9月 中山_學舎卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である曲沃城に立て籠もる。
107年9月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
107年9月 曲沃城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
107年10月 第3次邯鄲の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により上士に昇進。
107年12月 敵侵攻によって孤立した曲沃の地において、 暫定自治を始めた廣陵_張咸卿に従うことになる。
108年3月 中山_學舎卿指揮の河上_廖軍に曲沃城を包囲される。
108年3月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年3月 合流先を失い、以後、廣陵_張咸公に従う。
108年10月 河上_廖延卿指揮の河上_廖軍に曲沃城を包囲される。
108年10月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年1月 河上_廖延卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である蒲陽城に立て籠もる。
109年1月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 蒲陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年5月 廣平_梁伶卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である韓原城に立て籠もる。
109年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 韓原城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年5月 韓原城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
109年5月 国内の汝南_陳讃に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
109年7月 蒲陽平原の攻防戦において、河上_廖軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により下大夫に昇進。
109年11月 廣平_梁伶卿指揮の河上_廖軍に韓原城を包囲される。
109年11月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 韓原城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
110年8月 第2次蒲陽の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
110年9月 少梁の地を拠点とする方面軍は新たに濟南_許韜下大夫が司令官に。
111年1月 第2次虞城の戦いにおいて、鉅野_魯軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
|