102年11月 遼西_屠岸晏の嫡子として元服し清河_張軍士を拝命。
103年4月 風洪上士指揮の河上_廖軍に州城を包囲される。
103年5月 君主死亡によって野に下る。 そのころ、大規模に将兵の徴募を募っていた呉郡_董輔に仕官する。 士を拝命。
103年5月 この月の人事で、呉郡_董国、文官として処務にあたる任を司る。
106年3月 国内の五原_東里濤に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
106年6月 東平_張統上大夫指揮の南郡_將軍軍に上党城を包囲される。
106年6月 南郡_將軍軍の猛攻を防ぎきれず、上党城は落城する。
106年6月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
108年2月 河上_廖艷の支配する舒の地を訪れる。 この地の知者との話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年3月 河上_廖艷の支配する淮陰の地を訪れる。 この地の知者との話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年4月 河上_廖艷の支配する沮陽の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから代郡_慶忌軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年5月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、河上_廖軍に仕官する。 彼が 22歳の時であった。
108年8月 配属先が決まり、武官として準備するよう通達される。
108年8月 雲中の地を拠点とする、南郡_將軍翹上大夫揮下の北部方面軍に配属。
108年10月 上郡_王隱士指揮のもと河上_廖軍国太原城攻略戦に参加。
108年11月 勃海_左乂士指揮のもと廣陵_張国絳城攻略戦に参加。
108年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 絳城攻略は断念。 兵を退く。
109年1月 国内の廣川_張考に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
109年5月 雲中の地の方面軍を解任、首都に戻る。
109年6月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
109年7月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく淮陰の地への赴任が決まる。
110年2月 才より努力を持って、住民支持向上のまずまずの成果は上げ、 淮陰の地をあとにする。
110年4月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく陽擢の地への赴任が決まる。
110年10月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、陽擢の地をあとにする。
110年11月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
111年2月 雲中の地を拠点とする方面軍に配属が決まる。
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