100年1月 当時 64歳、河上_廖艷に上士として仕える。 主君の友人であったと言われる。
100年2月 呉興_小王勃卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年3月 呉興_小王勃卿の指示によって、地元の支持を得るべく広漢の地への赴任が決まる。
100年8月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、広漢の地をあとにする。
100年10月 河上_廖艷公の指示によって、地元の支持を得るべく蜀の地への赴任が決まる。
100年12月 国内の上谷_滕晞に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
101年2月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、蜀の地をあとにする。
101年4月 河上_廖艷公の指示によって、地元の経済の向上を目指し蜀の地への赴任が決まる。
101年7月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
102年2月 河上_廖艷公指揮のもと廬江_甫爽国剣閣城攻略戦に参加。
102年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、剣閣城攻略は断念。 兵を退く。
102年8月 広漢の戦いにおいて、廬江_甫爽軍と対戦。 前衛を担い、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
102年9月 方城の地を拠点とする、隴西_季老混下大夫揮下の北東部方面軍に配属。
103年1月 鉅鹿_梁岳下大夫指揮のもと新野_堪国剣閣城攻略戦に参加。
103年1月 剣閣城を包囲戦の末、陥落させる。
103年7月 鉅鹿_梁岳下大夫指揮のもと新野_堪国南鄭城攻略戦に参加。
103年7月 南鄭城を包囲戦の末、陥落させる。
103年7月 国内の遼東_楊翼に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
105年5月 漢中_輔国洛陽城攻略戦に着手。
105年5月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、洛陽城攻略は断念。 兵を退く。
105年10月 櫟城の戦いにおいて、武キ_懸潘軍と対戦。 前衛を担い、勝利。
105年12月 陳留_盂国上蔡城攻略戦に着手。
105年12月 城内への強行突入に成功、上蔡城を陥落させる。
106年5月 淮陽_陰參卿指揮のもと陳留_盂国寿春城攻略戦に参加。
106年5月 城内への強行突入に成功、寿春城を陥落させる。
106年7月 方城において病に伏せ逝去。 享年 71歳。
|