101年9月 動乱の時代に自分の力を試したく、義勇兵を募り挙兵。 河上_廖艷の目に掛かり仕官。
101年9月 河上_廖艷公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
101年11月 河上_廖艷公の指示によって、地元の経済の向上を目指し建為の地への赴任が決まる。
101年11月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
101年12月 方城の地を拠点とする、隴西_季老混上士揮下の北東部方面軍に配属。
102年1月 国内の中山_學舎に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
103年4月 州西の戦いにおいて、清河_張軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 清河_張領州を制圧。
103年4月 風洪上士指揮のもと河上_廖国州城攻略戦に参加。
103年7月 長沙西の戦いにおいて、新安_伊軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、勝利。 侵攻作戦は成功。 新安_伊領長沙を制圧。
103年7月 扶風_何W士指揮のもと新安_伊国長沙城攻略戦に参加。
103年7月 城内への強行突入に成功、長沙城を陥落させる。
104年4月 賛同する中山_學舎中大夫のはからいにより、 予章の地を拠点とする中山_學舎中大夫揮下、 南東部方面軍に配属が決まる。
104年4月 上谷_滕晞下大夫指揮のもと陳留_盂国六城攻略戦に参加。
104年4月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、六城攻略は断念。 兵を退く。
104年11月 君主側近の者への賄賂等、出世工作が実り上士に昇進。
105年11月 鉅鹿_梁岳下大夫指揮のもと陳留_盂国舒城攻略戦に参加。
106年4月 舒西の攻防戦において、陳留_盂軍と対戦。 右翼騎を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 陳留_盂領舒を制圧。
106年6月 洛陽の戦いにおいて、汝南_張軍と対戦。 陣頭に立つ、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。 汝南_張領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
107年2月 淮陽_陰參卿指揮のもと汝南_張国陽擢城攻略戦に参加。
107年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、陽擢城攻略は断念。 兵を退く。
107年11月 君主側近の者への賄賂等、出世工作が実り下大夫に昇進。
108年2月 配属されていた予章の地の方面軍解散が決定。 首邑に戻る。
108年2月 琅邪の地を拠点とする、新野_堪囘卿揮下の北東部方面軍に配属。
108年2月 河上_廖延卿指揮のもと南郡_將軍国濮陽城攻略戦に参加。
108年3月 城内への強行突入に成功、濮陽城を陥落させる。
108年6月 廣平_梁伶卿指揮のもと汝南_鄭国薊城攻略戦に参加。
108年6月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、薊城攻略は断念。 兵を退く。
109年1月 廣平_梁全上大夫指揮のもと汝南_鄭国薊城攻略戦に参加。
109年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、薊城攻略は断念。 兵を退く。
109年4月 国内の廣川_戲陽蒋に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
109年7月 琅邪の北東部方面軍を解任、首邑に戻る。
109年7月 野王の戦いにおいて、廣陵_張軍と対戦。 前衛を担い、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 侵攻作戦は成功。 廣陵_張領野王を制圧。
109年8月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
109年9月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく夷陵の地への赴任が決まる。
110年1月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
110年2月 臨晋の地を拠点とする、鉅野_魯樹中大夫揮下の北部方面軍に配属。
110年3月 敵侵攻によって孤立した臨晋の地において、 暫定自治を始めた鉅野_魯樹中大夫に従うことになる。
110年7月 君主側近の者への賄賂等、出世工作が実り中大夫に昇進。
111年1月 第2次虞城の戦いにおいて、廣陵_張軍と対戦。 陣頭に立つ、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 侵攻作戦は成功。 廣陵_張領虞城を制圧。
111年2月 濟北_范超士指揮の廣陵_張軍に臨晋城を包囲される。
111年2月 度重なる廣陵_張軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
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