100年1月 当時 61歳、呉郡_董竒に下大夫として仕える。 奸臣であったと言われる。
100年2月 桂陽_柏成繍卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年3月 桂陽_柏成繍卿の指示によって、地元の支持を得るべく邯鄲の地への赴任が決まる。
100年8月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、邯鄲の地をあとにする。
100年10月 桂陽_柏成繍卿の指示によって、地元の経済の向上を目指し朝歌の地への赴任が決まる。
100年10月 朝歌の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
100年12月 汝南_鄭統中大夫指揮の漢中_輔軍に上党城を包囲される。
100年12月 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 上党城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年4月 国内の桂陽_柏成繍に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
104年11月 桂陽_柏成繍卿の指示によって、地元の支持を得るべく聊城の地への赴任が決まる。
105年4月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、聊城の地をあとにする。
106年6月 東平_張統上大夫指揮の南郡_將軍軍に上党城を包囲される。
106年6月 南郡_將軍軍の猛攻を防ぎきれず、上党城は落城する。
106年6月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
108年12月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、河上_廖軍に仕官する。 彼が 69歳の時であった。
109年3月 巫城において病に伏せ逝去。 享年 70歳。
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