100年1月 当時 42歳、汝南_郭静に士として仕える。 適材適所の配属であったと言われる。
100年2月 金城_浩卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年3月 金城_浩卿の指示によって、地元の支持を得るべく大梁の地への赴任が決まる。
100年9月 住民支持向上の成果をかろうじて上げ、大梁の地をあとにする。
100年11月 金城_浩卿の指示によって、地元の支持を得るべく上蔡の地への赴任が決まる。
101年1月 上蔡の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
101年5月 金城_浩卿の指示によって、地元の支持を得るべく濮陽の地への赴任が決まる。
101年10月 住民支持向上の成果をかろうじて上げ、濮陽の地をあとにする。
101年11月 君主汝南_郭静死亡。 以後国内の協力者であった金城_浩の旗揚げに従う。
101年12月 金城_浩公の指示によって、地元の支持を得るべく大梁の地への赴任が決まる。
102年1月 金城_浩国、武官として司令官となる。
102年10月 清河_喬敬士率いる新城_公子軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である定陶城に立て籠もる。
102年10月 新城_公子軍の猛攻を防ぎきれず、定陶城は落城する。
102年10月 新城_公子国に定陶を制圧され降伏。 捕虜となるも助命され新城_公子軍邑宰を拝命。
103年10月 彭城_左史玄卿指揮の象郡_賀軍に臨鯔城を包囲される。
103年10月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 臨鯔城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
103年11月 六の地に赴任。
104年1月 陳留_盂国に六を制圧され降伏。 捕虜となるも助命され陳留_盂朝彭城帝国軍邑宰を拝命。
108年1月 新野_堪囘卿指揮の河上_廖軍に彭城城を包囲される。
108年2月 彭城城は包囲戦の末、陥落。
108年2月 河上_廖国に首邑彭城を制圧され降伏。 捕虜となるも助命され河上_廖軍邑宰を拝命。
111年1月 琅邪の地に赴任。
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