100年1月 当時 55歳、漢中_輔基に上士として仕える。 主君を慕ってであったと言われる。
100年1月 漢中_輔国、文官の任に就いていたとされる。
100年1月 漢中_輔基公の指示によって、地元の経済の向上を目指し平陽の地に赴任中であった。
100年6月 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく魯陽の地への赴任が決まる。
100年8月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
100年12月 第3次晋陽の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
101年1月 邯鄲南の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 呉郡_董領邯鄲を制圧。 功績により下大夫に昇進。
101年3月 第4次晋陽の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。
101年6月 南郡_將軍国太原城攻略戦に着手。
101年6月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、太原城攻略は断念。 兵を退く。
101年11月 廬江_甫爽頌下大夫率いる廬江_甫爽軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である陝城に立て籠もる。
101年11月 度重なる廬江_甫爽軍の猛攻から 陝城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年1月 南郡_將軍翹公率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である沮陽城に立て籠もる。
102年2月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 沮陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年2月 沮陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
102年3月 敵侵攻によって孤立した督亢の地において、 暫定自治を始めた漢中_棘穰上大夫に従うことになる。
102年4月 同じ暫定自治を行っていた、象郡_賀沛公に合流する。
102年7月 第2次武城の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 前衛を担い、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
102年9月 漢中_棘穰上大夫指揮のもと南郡_將軍国代城攻略戦に参加。
102年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、代城攻略は断念。 兵を退く。
103年1月 第2次高唐の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 左翼を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 新城_公子領高唐を制圧。
103年4月 第2次東垣の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 後衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により上大夫に昇進。
103年4月 第2次沮陽の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により卿に昇進。
103年6月 廣陵_張咸卿率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である鉅鹿城に立て籠もる。
103年6月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
103年6月 鉅鹿城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
103年7月 鉅鹿の南部方面軍を解任、首邑に戻る。
103年10月 新城_公子国臨鯔城攻略戦に着手。
103年10月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 臨鯔城攻略は断念。 兵を退く。
104年4月 邯鄲の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 陣頭に立つ、いくつかの敵部隊を粉砕し奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 呉郡_董領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
104年7月 国内の漢中_棘牧に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
104年9月 南郡_將軍国代城攻略戦に着手。
104年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、代城攻略は断念。 兵を退く。
105年3月 南郡_將軍国襄国城攻略戦に着手。
105年3月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、襄国城攻略は断念。 兵を退く。
105年7月 世間に知られることなく君主象郡_賀特に刺客を送り抹殺する。
105年7月 君主象郡_賀特死亡。 任地であった南皮の地で旗揚げをする。
106年2月 彭城_左史褒を養子に迎える。
107年3月 配下の彭城_左史褒の忠誠を得る。
108年5月 上谷_滕晞卿指揮の河上_廖軍に南皮城を包囲される。
108年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 南皮城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年7月 南皮城において病に伏せ逝去。 享年 64歳。
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